10,どこにも行かないで(4)

 コテージに着くと彼女が選んだ場所は、室内の一番端の床の上だった。
 俺としては椅子に座らせようと思っていたのだが、隅っこで膝を抱えて動こうともしない彼女を無理に移動させるのも気が引けた。
 俺は何も言わず、飲み物を用意してやることにした。
 湯が沸くまでのしばらくの間、室内には彼女の嗚咽だけが響く。
 茶葉を煮出してからカップに注いで彼女の元へと運ぶ。
「・・・飲め。身体があたたまる」
 彼女は緩慢に顔を上げ、立ち上る湯気をぼんやりと眺めた後、やがてカップを受け取った。
 淹れたての茶はすこし熱かったらしく、彼女はふうふうと息を吹きかけながらゆっくりとカップを口に運ぶ。
 手持無沙汰になった俺は、すこし離れた場所に腰を下ろした。
 嗚咽もだいぶおさまってきたようだが、彼女は何も言わなかった。
 俺も、何も言わない。
 長い時間をかけてカップが空になるまで、静寂がその場を包んでいた。
「飲み終わったか」
 タイミングを見計らって俺が問うと、彼女はコクンと頷いた。
 これですこしは落ち着くだろう。
 俺は左手でカップを受け取り、立ち上がろうとした。
 その時だった。
「・・・・・・?」
 俺は自分の動きに反する力を右腕に感じた。
 振り向くと、なんとポロムの指が申し訳程度に俺の右袖を掴んでいた。
 菫色の目に涙を溜め、すがるように、どこか必死な眼差しで、けれどそれ以上引っ張ることをせず――彼女は俺を見上げていた。
 俺は思わず動きを止める。
 彼女は孤独や不安が入り混じった眼差しで俺を見上げながら、消え入りそうな声で言った。
「カインさんは――」
 菫色の瞳が潤む。
「カインさんは、わたしの前からいなくなったり、しませんよね・・・!?」
「――!!」
 ・・・雷に打たれた気分だった。
 その気がないならはっきりと遠ざけた方がいいのではないかと悩んでいた自分。
 目の前で、必死に俺の袖の端を摘んでいる少女。
『わたしの前からいなくなったり、しませんよね・・・!?』
 そう言った彼女はまるでめいっぱいに水をたたえたグラスのようで、軽く刺激を与えただけでもこぼれてしまいそうな危うさと繊細さを持っていた。
 俺は苦虫を噛み潰す思いで心中で舌打ちした。
 ・・・彼女を・・・彼女を突き放すことなど・・・。
 ・・・・・・。
 ・・・・・・できるものか!!
 俺は自嘲するように小さく息をついてから身を屈め、遠慮がちに袖を摘んだ彼女の手をそっと握った。
 揺らめく彼女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「どこにも行きはしない・・・」
 左手のカップを床に置き、頬を伝う涙をすくってやる。
「ほんと、ですか・・・?」
「ああ、約束する」
 目を細め、俺はしっかりと頷く。
「よかった・・・!」
 彼女は安心したように、泣き笑いの顔でぽろぽろと涙を流した。
 そんな彼女があまりにいたいけで。
 俺は彼女を強く抱き締めた。
 先程よりもすこしあたたかい彼女の腕が俺の背にそっと回される。
 ああ、俺はいったい何をやっているのだろう。
 おとなでもなく子どもでもないこの少女相手に、何をやっているのだろう。
 彼女の涙を止めるために、なぜこれほどに必死になっているのだろう。
 己が滑稽に思えると同時に、かつて抱いたことのない感情に俺は戸惑いを覚えた。
 だが、昨日の命題の答えがわずかに見えた気がする。
 俺にとってポロムは何なのか。
 それは、男女がどうのとかおとな子どもがどうのではない。
『大切にしたい存在』――それが、俺が見出した答えだ。
 傍にいるのに、その理由では不足か?
 それ以上の理由が必要なのか?
 ・・・いや、そうは思わん。
 エッジやリディアには笑われるかもしれないが、それが俺の答えだ。
『ま、恋愛オンチのテメーにしちゃあ上出来なんじゃねーの?』
 そんな風に言って笑うエッジが目に浮かんだ。
 ふいに、ポロムの身体が傾いた。
「・・・・・・?」
 いつの間にか、すうすうと規則正しい息遣いをしている。
 どうやら、安心したのか眠ってしまったようだ。
「泣き疲れたか・・・」
 こうして見るとまるで子どもだ。
 俺はふっと苦笑すると、起こさないようにそっと彼女を抱え上げた。

次のページへ進む

UP