11,自戒のしるし(1)

– Porom Side –

 それからの数日はわたしとカインさんの間に特に何があるでもなく、以前と同じように平和な日々が続いた。
 カインさんは相変わらずぶっきらぼうだけど優しい。
 時々あの時に手を握られたり抱き締められたりした感覚が恋しくなるけれど、わたしからそんなことを言い出す勇気などあるはずもなく、指先すら触れていない。
 それでもわたしはカインさんに受け入れられている気がして幸せだった。
 パロムが家を出て行ってからようやくひとりぶんの食事や洗濯にも慣れた頃、わたしはいつものように長老の館でその日の報告を行っていた。
「ふむふむ、だいぶ山の修繕は進んでおるようじゃな」
 眼鏡を外した長老がしわしわの指で日誌のページをめくる。
 以前はメモ帳を使っていたのだけれど、几帳面な仕事をしたかったわたしはずいぶん前から報告用の日誌を使うようになっていた。
「はい、このぶんならあと半年もあれば初心者の修行の場としても使えるようになりそうです」
「うむ。ご苦労じゃった」
 満足げに長老はわたしに日誌を返してくれた。
「では今日は失礼しますね」
 わたしは日誌を鞄に納め、礼をして部屋を出ようとしたその時、長老は思い出したかのようにわたしを呼び止めた。
「そういえばポロムよ」
 長老の声に足を止めて振り返る。
「何でしょう?」
「最近竜はどうじゃ? すこしは人間らしくなったかの?」
「・・・・・・!」
 わたしの心臓が突然の質問にドキンと跳ね上がる。
 竜、それはすなわちカインさんのことだ。
 ここのところ長老には彼のことを聞かれていなかったので、油断していたわたしは一瞬言葉に詰まってしまった。
「い、嫌ですわ長老、『人間らしく』だなんて。カインさんは充分、情の深い方ではありませんか」
 内心ドキドキしながらわたしは答えた。
 表情に出ていなければいいのだけど。
「ほう? あやつが情が深いか! ほっほっほっ・・・」
 何が滑稽なのか分からないが長老は可笑しそうに笑った。
 わたしはすこしむっとして口答えする。
「何が可笑しいんですか。カインさんに失礼ですっ」
「いやいや失敬。そうか、あやつも人間らしくなってきおったか。それは何よりじゃ。ポロム、もう下がってよいぞ。呼び止めてすまなんだな」
 満足そうに笑うばかりの長老。
 そういえばカインさんも長老のことを知っているようだったけど、どういう関係なんだろう?
 わたしがいぶかしむように口をへの字にすると、長老は言った。
「あやつが人間らしく生きているなら何も問題など起こらんのじゃ、心配いらん」
「・・・・・・?」
 へんな長老。
 首を傾げつつも、わたしは館を後にした。

 翌日は休みの日。
 だけどわたしは試練の山に向けていそいそと家を出た。
 ・・・大荷物を持って。
 良かった、天気は快晴。
 これならまさに掃除日和だわ!
「・・・・・・」
 一合目でわたしを見るなり呆れたように言葉を失ったのはカインさんだ。
「前にわたし申しましたでしょ? 今日は本格的に寒くなる前にコテージの大掃除をすると。もしかしてお忘れでした?」
 大真面目に言うわたしの手には、大小のほうき、ちりとり、はたき、バケツ、新聞紙、洗剤などあらゆる掃除道具が握られている。
 背中に背負ったリュックの中身も全部雑巾だ。
 そんな完全武装したわたしにカインさんは苦笑した。
「・・・いや、覚えている。見た目が滑稽だっただけだ」
 言われてわたしは自分の首から下を見る。
 ローブの袖にはたすきをかけ、両手のバケツから飛び出したほうきたちはまるで武器のよう。
 確かに、ちょっと変かもしれないが、わたしはぷーっと頬を膨らせた。
「し、失礼しちゃいますわ! 持ってくるの、大変だったんですよ!?」
「ふっ、まあ怒るな」
 言葉と相反して顔がまだ笑ってますけど・・・?
 本当に、これだけ荷物を持ってチョコボに乗るのは大変だったのに。
 わたしがむくれていると、両手の掃除道具入りバケツがカインさんの手に渡った。
「すまんな、わざわざ。助かる」
 そう言って、カインさんは荷物を抱えてすたすたと先を歩き始めた。
 まったく、こういうところがあるから憎めない。
 わたしは機嫌を取り直してカインさんの背を追った。

 掃除はもっぱらわたしの仕事だった。
 普段は素早くて命中も正確なカインさんだけど、こればかりはわたしの圧勝。
 数刻経った頃にはわたしが掃除係、カインさんは力仕事、という風に完全に役割分担したくらいだ。
 そして、残すは後片付けのみとなった頃。
「この雑巾は全部洗えばいいのか?」
 わたしがバケツの横に積んでいた雑巾の山を見てカインさんは言った。
「あ、じゃあ一緒に手伝ってくれますか?」
「お安いご用だ」
 そしてカインさんは嫌な顔ひとつせず、汚れた雑巾をじゃぶじゃぶと洗い始めた。
 雑巾を洗うカインさん・・・その光景が妙に可愛くて、わたしはついぷっと笑ってしまう。
「・・・何だ?」
 憮然としてカインさんが一瞬手を止める。
 彼ほどこういう作業が似合わない方もなかなかいない。
 同じ見目の良い男性でも、セシルさんなら不思議と雑巾洗いも絶対似合うと思うのだけど。
「・・・いえ、ちょっと『滑稽だった』だけです」
 わたしが先程のカインさんの台詞を奪うと、カインさんはまるで少年のように口をへの字にして、むきになったように勢いよく雑巾洗いを再開した。
 周囲に水が飛び散る。
「あら、カインさん」
 その様子を見てわたしはあることに気が付いた。
 カインさんってば袖を捲らずにやっているから、袖の端がすっかり濡れてしまっている。
「袖、捲りますね」
 わたしは自分の手を拭き、カインさんの左の袖に手を伸ばした。
「ああ、すまんな」
 カインさんは捲りやすいように肘を上げてくれた。
 左の袖を三重ほどに外に折り返し、次は右の袖。
 左同様に、外側に一度折り返した、その時。
「――触るな!!!」
 突如、わたしの手はカインさんに激しく振り払われた。
 カインさんは右の袖を押さえ、これまで見たこともないほどに怖い顔をしてわたしを睨んでいた。
 暗い、影のある青い瞳。
 突然のことにわたしはわけがわからず、茫然としてカインさんを見つめた。
 宙にさまようわたしの手が震えた。
 カインさんに突然振り払われて驚いたからではない。
 わたしは、見てしまった――彼の右袖の下を。
 そこに刻まれた、ひとすじのしるしを、見てしまったのだ――。
「・・・見たのか」
 カインさんがぎろりとわたしを睨む。
 言葉が出ず、わたしは震えながら頷く。
 わたしが見たもの。
 それは右の手首を横に走る、一本の刻印。
 周りの皮膚よりも色が白くすこし盛り上がったようになったその線は、どう見ても深い切り傷の痕。
 そう、自ら命を断とうとした者が手首に刻む、あの刻印だった――
「ご、ごめんなさい・・・」
 わたしは見てはならないものを見てしまった。
 声にならないほどのかすれた声でわたしは言葉を絞り出す。
 なぜこんなものがカインさんの手首に・・・?
 わたしは自分の見たものが信じられず、ただただ目線をさまよわせた。
 カインさんはしばらく怒気を孕んだ目線をわたしに叩きつけていたけれど、やがてすこし怒気を抑えた。
「・・・すまん。ついカッとなってしまった」
 わたしはふるふると首を振り、どうしていいか分からず自分の手元に視線を落とす。
 どうして、カインさんが命を断つようなことを・・・?
 いつのことだろう。
 何があったんだろう。
 知りたいけど、訊きたいけど、訊けない。
 わたしがうつむいているとカインさんは言った。
「お前にはもっと早くに話しておいてもよかったかもしれんな」
 はっとして顔を上げると、カインさんの目はもう怒ってはいなかった。
 そして、彼は淡々と話し始めた――

次のページへ進む

UP