14,闇の襲来(2)

– Porom Side –

 脂汗をかいて震えていたカインさんは、やがてふっとわたしの方に顔を上げた。
 その目は、笑っていた。
「・・・・・・!?」
 さっきまであんなに苦しんでいたのに、打って変わって普段ですら見られないほどの笑顔を浮かべていたのだ。
 唇の端が、にやりと怪しく持ちあがる。
 わたしの目を優しく見つめ、近付いてくる。
「・・・カインさん?」
 何か、おかしい。
 カインさんはこんな笑い方はしない。
 もっと、どこか影のある気障(きざ)な笑い方をするはずなのに。
 わたしは一歩、二歩と後ろに下がる。
「ポロム・・・」
 くすぐるような甘い声音でカインさんがわたしの名を呼ぶ。
 どん、と背中が壁に当たった。
 違う。カインさんはそんな声でわたしの名を呼ばない。
 でも、それでもわたしの目の前にいるのは紛れもなくあのカインさんで。
 わたしが恋しく思ってやまないカインさんで。
 彼にこんな風に名を呼ばれることをこころのどこかで期待したことがないと言えば嘘になる。
 わたしは彼の甘い笑みと声から逃れられず、固まったような、けれどどこかふわふわと落ち着かない気持ちで彼の視線を受け止めた。
 カインさんの大きな手が、わたしの両腕を壁に縫いとめる。
 端正な顔が、目の前にあった。
 青い瞳に吸い込まれるように、わたしは目を逸らすことができない。
 その距離が、徐々に縮まってゆく。
「カイン・・・さん?」
 心臓が高鳴る。
 何かがおかしいと分かっているのに、わたしはこの愛しいひとの眼差しから逃れられない。
「何も、怖がることはない・・・」
 甘い声音でカインさんが囁く。
 頬がかあっと火照った。
 もしかして、いやもしかしなくてもカインさん、わたしに口づけをしようとしている・・・!?
「カ、カインさん!??」
 あまりに突然の展開にわたしは慌てた。
 心拍音が外に聞こえているんじゃないかというほど心臓が忙しく稼働する。
 相手はカインさんだもの、嫌なわけない。
 でも、心の準備ってものがある。
 けれど両手は拘束されていて、カインさんには待ってくれる素振りなどすこしもない。
「・・・・・・!」
 ぎゅっと目を瞑ったその時。
 ドンッ!
 耳元の壁を叩く音に、わたしははっとして我に返った。
 見ると、カインさんは苦しそうに歯を食いしばり、ぎりぎりと震えていた。
「ぐ・・・や、めろ・・・!!」
「カインさん・・・?」
 カインさんはわたしとの間に距離を置くように、必死で腕を伸ばしているようだった。
 何かに抗っている・・・?
「カインさん!? 大丈夫ですか!?」
 わたしの声が届いているかわからないけれど、わたしはカインさんを揺さぶりながらその名を呼んだ。
「カインさんっ!!」
 カインさんはしばらく何かに抗うように脂汗を浮かべていたが、やがてわたしの手をそっと握ると顔を上げた。
「大丈夫だ・・・」
 その声を聞いてほっとしたのも束の間。
「・・・俺は、正気に戻った!!」
 次の瞬間、わたしの腕は彼の右手一本で頭上の壁に押さえつけられた。
「痛っ・・・!」
 わたしは抗議の声を漏らしたけれど、カインさんは気にも留めない。
 いつもならどんなに小さなことだって心配してくれるのに。
 わたしを凝視するカインさんの瞳は、獲物を見つけた肉食獣のようにらんらんと輝いていた。
 やっぱりこれはいつものカインさんじゃないわ。
 何かに操られているのか支配されているのかは分からないけれど、カインさんはこんなことしない!
 気をしっかり持つのよ、ポロム!
 わたしは彼の誘惑に落ちそうになった自分を叱咤して、キッと青い瞳を睨んだ。
「あなた誰!? 離して!!」
 すると彼は薄く笑った。
「誰、だと? お前が慕ってやまないカインだろう? 何を恐れることがある?」
 カインさんの声で、彼は言った。
「うそよ! カインさんはそんな風に笑わないもの!!」
 叫ぶように言うと、彼の左手がわたしの腰をぐっと捕らえた。
「俺は、カインだ」
「・・・・・・!」
 ぞっとするような美しい笑顔で、彼はわたしの耳元で囁いた。
 そのまま彼はわたしの耳を甘噛みした。
「ひゃ・・・!!」
 ぞくりとした鋭い感覚がわたしを襲う。
 そしてそのまま彼の唇は下へと下りてゆき、わたしの首筋に舌を這わせた。
 くすぐったいような、でもどこか恍惚とさせる熱っぽさが電流のように全身を駆け抜ける。
「は・・・あっ・・・!!」
「・・・いい声だ」
 彼は薄く微笑した。
 腰に回された手がじわじわと撫でるように下がってゆく。
 この人はカインさんじゃない。
 嫌、やめて。離して。
 でもその端正な姿はやはりカインさんに間違いなく、そう思うとわたしの口からは悲鳴ではなく自分でも知らない甘い吐息が漏れた。
 彼はいったん唇を離すと、右手でわたしの腕を押さえつけたまま、左手でわたしの顎を上に向かせた。
 親指が、わたしの唇を妖しく撫でる。
 ああ、カインさんの瞳が迫ってくる。
 やめて、カインさんの姿でそんなこと、しないで――
「・・・離して」
 わたしはかすれる声で言った。
「何だと?」
「あなたはカインさんじゃないわ! あのひとを返して!!」
 そうよ、この人はカインさんじゃないんだから!
 青い瞳に負けそうになる自分を奮い立たせてわたしは声を上げた。
「・・・俺を拒むのか、ポロム」
「・・・・・・!」
 悲しげな顔を浮かべて神妙に言った彼の台詞にわたしは思わず詰まってしまった。
 騙されてはいけないと思いつつも、目の前の憂いを帯びた眼差しにわたしは次の句が言えなくなってしまう。
「・・・それでいい」
 彼は、にやりと笑った。
 いけない、油断してしまった――
 唇が触れるか触れないかというところまで近づいたその時。
 彼の動きが止まった。
 震えながら、わたしの顎から手が離れた。
 そしてその手はわたしを押さえつける右手の指を一本一本外すようにして、彼の右手をわたしから引き剥がした。
 そして一瞬のうちに左手でナイフを握ると。
「いい加減にしやがれ!!!!!」
 テーブルの上に自らの右手を縫いつけたのだ!
「!!!」
 わたしは息をのんだ。
 カインさんが突き立てたナイフは彼の右手を貫いて離さず、鮮血が溢れ、じわじわとテーブルに広がっていった。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・くそったれが・・・!!」
 息も切れ切れに、彼は舌打ちをした。
 あの目つきは、いつものカインさんのものだ。
 けれど相当に体力を消耗しているのは明らかで、肩で息をしているカインさんの前髪は汗でじっとりと額に貼り付いていた。
「カインさん、やめてください・・・! 血が・・・!!」
「来るなっ!!」
 駆け寄ろうとしたわたしを制し、カインさんは再び苦悶の表情を浮かべた。
「ぐっ・・・! 貴様・・・まだ・・・!!」
 カインさんの左手がぐぐぐ、と機械のように持ち上がった。
 そして右手に刺さったナイフを勢いよく抜くと、カランと音を立てて床に転がした。
 手の甲から血があふれる。
「ふん・・・こんなナイフごときに負けるものか!」
 背筋が凍えるとするほど冷淡な声で、カインさん――いや、カインさんの姿をした何かがそう言った。
 そして右手から血を滴らせながら、じろりとこちらに向けて歪んだ笑みを浮かべた。
「ヘッ・・・たっぷり可愛がってやろうかと思ったが予定変更だ。こうも邪魔されちゃあその気も萎えるってもんだぜ・・・」
 明らかにカインさんとは違う口調で彼は言った。
 先程までの甘い眼差しは消え失せ、苛立ちと憤怒に支配された禍々しい目つきだ。
 そして壁に立てかけてあった槍を右手でふんだくるように掴む。
「もう我慢ならねぇ。最初からこの娘を殺しちまえば良かったんだ・・・そうすりゃこの闇は何倍にも膨れ上がる!」
 彼は狂気をほとばしらせながら、ちゃき、と槍を携えてわたしのほうへとゆらりゆらりと近付いてきた。
 わたしはこの瞬間確信した。
 やっぱりわたしの前にいるのは、カインさんじゃない。
 だって、カインさんは左利きだもの・・・槍を右手で持ったりなんかしない!!
「・・・カインさんっ! ねえ、カインさん!? 聞こえてますか!? カインさん!??」
 わたしはわたしの知っているカインさんを呼び続けた。
 カインさん。
 わたしの声が届いていますか。
 お願い、戻ってきてください――
「恨むなら邪魔立てしやがったカインを恨むんだな! 死ねぇ!!!!」
 そして、彼はわたしの目の前で槍を大きく振り上げた。
 わたしを貫くべく、ぎらりと鈍く光る刃の先。
 ――逃げるのよ、ポロム!
 このひとはカインさんじゃないのよ!
 ・・・でも。
 ・・・でも・・・!!
 『邪魔にはならん』と言ってわたしを傍に置いてくれるカインさん。
 『大したことはない』と無愛想なふりをしていつも助けてくれるカインさん。
 すこしだけ目を細めてふっと笑うカインさん。
 差し入れをするたびに『美味い』と言ってくれるカインさん。
 わたしが泣くと、そっと涙を拭ってくれるカインさん。
 わたしを抱き締める・・・優しくて、あたたかいカインさん。
 たくさんのカインさんがわたしの脳裏に蘇る。
 それはどれもかけがえのない大切な宝物。
 ねえポロム。
 じゃあ、この目の前にいるひとは誰なの・・・?
 カインさんじゃなくて誰だというの・・・!?
 答えが出るより先に、わたしは床を蹴っていた。
 そして、槍を振り上げた彼――カインさんを正面から思いきり抱き締めていた。
「・・・・・・!?」
 わたしを貫こうとした動きが、あと一寸のところで止まった。
「な・・・ぜ・・・!?」
 それはカインさんが言ったのか、別の何かが言ったのかは分からなかった。
 でももうそんなことどうでもいい。
 わたしは抱き締める腕に力を込めた。
「逃げません・・・!」
 キッと青い瞳を見上げる。
「あなたを置いて、逃げることなんかできません!!」
 カインさんの目を見つめ、毅然(きぜん)としてと言い放つ。
「くっ・・・貴様・・・!!」
 カインさんが苦しげに顔を歪めた。
「カインさんはわたしに言ってくれました、『どこにも行かない』って・・・。だったらわたしもあなたのおそばを離れません! ずっと、ずっと一緒にいます!!」
 感情が昂る。涙がこぼれる。
 それでもわたしは語気を弱めずに、叫ぶように言った。
「たとえあなたの中に闇があっても、何かに操られたとしても、わたしにとってカインさんはあなたしかいないんです! あなたがいないと、ダメなんですっ!!!」
 カインさんはうろたえたように震え始めた。
「う・・・ううッ・・・! 俺を・・・見るな!」
「いやです! わたしは、ずっと、ずっとカインさんを見ていたいんです! 嫌だって言われてもやめません!」
 乾いた音を立てて彼の手から槍が落ちる。
「わたしは・・・わたしは・・・!!」
 ぼろぼろと涙が流れるのも厭わず、わたしが叫んだその時。
 カインさんの身体が淡く発光した。
「う・・・ああっ!? 何だ、これは・・・っ!?」
 白く清らかな光が、ひとすじ、ふたすじ。
 ホーリーの聖なる光のようにそれはカインさんの身体を包みこんだ。
「何だと・・・!? や、闇が狭くなっていく・・・!?」
 光がじわじわと体内に浸透してゆく。
「お、押し出される・・・っ!!! ぐ、ぐあぁぁぁああああっ!!! 」
 そしてすべての光が吸い込まれた時、黒いもやのようなものが体外に滲み出た。
 魔物の匂いのする、濃厚な悪の塊が。
 やはりカインさんは何者かに操られていたのだ。
 わたしは黒いもやをキッと睨む。
「ちっ・・・覚えてやがれ!!」
 そう捨て台詞を吐いてついにそれはカインさんを解放し、煙のようにかき消えた。
 悪霊が去った直後、わたしの腕の中のカインさんはぐったりとこちらに倒れ込んできた。
 慌てて受け止め、あやすように背中をさする。
「もう大丈夫です・・・あなたはひとりじゃありません・・・」
 わたしが涙声で囁くと、カインさんは安心したように安らかな寝顔で寝息を立て始めた。

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