涙雨(ユニ子→エッツェル)

新紋章21章あたり。
マイユニ(フェンリル・司祭)→エッツェルのSSです。
マイユニとエッツェルの拠点会話3をプラスアルファした感じのお話です。

   *     *     *
 
あの方は、いつもどこか遠くを見ている。
私と話す時は私の目を見てくれるけれど。
いつもどこか遠くを見ている。
私の向こうを、目に見えない何かを探すように、遥か彼方を。
エッツェル殿、あなたの目には、私たちなどモノクロ画像のようにしか映らないのでしょうか――

~涙雨~

 山の端に重くのしかかる暗雲は、太陽の光を遮り今にも雨を降らさんと待ち構えている。どこからか雷の重低音が響いてきて、この場所が雨雲に覆われるのも時間の問題だと思われた。
 今日はここで陣を張ろう、とマルス様が仰ったのはつい先程のこと。激しい戦いの後で皆疲弊していたし、その上雨に降られては行軍もままならないと判断なさったのだろう。私たちは雨になる前にキャンプの設営に取り掛かり、どうにか雨に降られずに済んだと皆ほっと一息ついていた。
 司祭である私の仕事はむしろその後にやって来る。すなわち、怪我人の手当てだ。
「……ライブ!」
 怪我人用のテントで杖をかざす。もうこれで何人目だろう、先の戦いはこれまでに増して激しく、戦いに勝利した後も何度杖を振ったか分からない。命を落とす者がいなかったのが不幸中の幸いだ。
 杖の治療が終わった者には各自のテントに戻って休んでもらっているので徐々に人が減っていく。そして最後に残った負傷者の顔を見て私は息をのんだ。
「エッツェル殿……!」
 赤毛のソーサラーは片眼鏡をしていない方の目を細め、左右非対称な苦笑を浮かべた。
「ライブってのは不便なもんだよな。自分の怪我はどうにもならねえんだから」
 服には肩から胸にかけて大きな血の染みが広がっており、顔色も悪い。なのに焦っているふうはまるでないではないか。
「ひどい怪我……! エッツェル殿、どうしてもっと早くいらっしゃらなかったんですか!」
 通常怪我人は専用のテントに集められ、症状が重い者から治療することになっている。だけど今回は治療を始めた時エッツェル殿の姿はなかったように思うのだ。もしひと目見ていれば、このようなひどい怪我は真っ先に治療したのに。
「はは、さっきマルス王子にも言われたよ。さっさと治してもらってこいって命令されちまった」
 まるで昨日食べた夕食のことでも話しているかのような声音でエッツェル殿は言う。それも今に始まったことじゃない。この方は、いつだって……!
「何をそんな他人事みたいに……。とにかく、じっとしててください! ……ライブ!」
 杖を振ると、やわらかくあたたかな光がエッツェル殿を覆った。傷が光を吸い込んでゆく。きっとこれで大丈夫なはずだ。
「……ありがとう。さすがだな、フェンリル」
「いえ……」
 エッツェル殿が微笑む。穏やかで、静かな笑顔。
 だけど、その目は私を見ていない。どこか、遠く、遥か彼方に向けられている。この世よりももっともっと遠くの場所に。まるで、そこに自分も行きたがっているかのように……。
 いつかエッツェル殿が漏らした言葉が耳に蘇る。
『おれが死んだら……あいつにまた会えるんだろうか……』
 胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「エッツェル殿」
 私は意を決して言った。
「何だ?」
「私は……あなたの戦い方を見ていると心配になるのです」
「心配……?」
「今日だってそう。敵の反撃など構わずに戦っておられましたよね。そしてこのような大怪我を負っても抗おうとなさらない……。あなたの戦い方は時々……まるで死に場所を求めているように見えるのです」
 するとエッツェル殿は苦笑して、
「……すまんな、悪い癖だ。戦いの途中も、どうしてもあいつのことを思い出しちまうらしい」
 左手の薬指に嵌った金環を見つめた。その先には私には見えない何かが見えているのだろう。失ってしまった、最愛の存在を。
 でも、もし私が彼女だったら。私がアーシェラさんだったらどう思うだろうか? 半ば自暴自棄な戦い方をし、命などいつ失っても構わないかのように振舞う彼のことを、どう思うだろう……?
「エッツェル殿……私はアーシェラさんのことを何も知りません。あなたたち二人がどれだけ深く愛し合っていたかも……。でも、アーシェラさんは、彼女はきっと……あなたに生きて欲しいから、あなたをかばったんです」
「…………」
「あなたが死んだら、あなたをかばった彼女の行為は無になってしまいます。ですから、どうか……」
 差し出がましいことだとは分かっている。放っておいてくれと突き放されるかもしれない。けれど言わずにはいられなかった。ともするとエッツェル殿はこのまま消えていなくなってしまうのではないか、そんな危うささえ感じられたのだから。
 エッツェル殿はしばし怪訝そうに私の目を見つめた後、ふっと表情を緩ませた。
「そうだな……その通りだ。このまま死んであいつのもとに行ったら、あいつは怒るだろうな。大切な命を無駄にするなって……あいつはそういう奴だった……」
「エッツェル殿……。じゃあ、今度からは無茶な戦い方はせずに、怪我をしたらすぐに来てくれますか?」
「ああ、分かった。約束しよう」
 相変わらずどこか憂いのある笑みだったけれど、それは先程のような死に甘んじるものではなく多少なりとも生気を感じさせる笑顔だった。そのような彼の表情は初めて見たような気がして、私もつられて笑顔になる。よかった、分かってくれたのだ。
 けれど、彼の次の言葉は、私を戸惑わせた。
「感謝する、フェンリル。まるで、あいつに叱られているみたいだった」
「……え」
 私の表情は笑顔を貼り付けたまま静止した。
 それはどういう――?
「どうした?」
 彼の目は優しい。私に心を開いてきてくれているのかなと思いたくなってしまうほどに。実際、彼の一番大切だった人に例えてくれるということは、少なくとも嫌われてはいないということだろう。でも――
『あいつに叱られているみたいだった』 
 それは同時に、彼は私の向こうにアーシェラさんを見ているということではないだろうか。結局のところ、私ではなくアーシェラさんを。
 いいえ、初めからそんなことは分かっていた。彼はずっと、今でもなおアーシェラさんの幻影を探している。先程の笑顔だって、たまたま私がアーシェラさんに重なる部分があったからそんな顔をしたのだ。
 それが改めて認識させられたのが悲しくて。
 私はぐっとエッツェル殿のローブの袖を掴んだ。
「あ、あの!」
「うん?」
「違うん です。いえ、その、違わないんですけど……、あなたに死なないでほしいのは、アーシェラさんが悲しむからだけじゃありません」
 精一杯の勇気を振り絞り、私は引っ込みたがる声をやっとの思いで前へ出した。胸の中のからまった糸のような想いを、言葉を選びながら伝えてゆく。
 私はキッと顔を上げ、ひと言ひと言噛み締めるように言った。
「その……あなたにもし何かあったら……私は……私は、悲しいです」
 こんな時、口が下手な自分が恨めしい。例えばパオラ殿ならもっと気の利いた台詞を仰るだろうし、セシルならもっと伝わりやすい言葉を知っているだろう。でも、私にはこれが精一杯。
 アーシェラさんに勝ちたいなんて思ってなんかいない。
 ただ、この世にまだあなたを必要としている者がいること、アーシェラさんだけでなく私といういち個人があなたを失いたくないと思っていることを分かってほしい。
 その一心で私はたどたどしい口調で言った。
「私は、あなたに生きていてほしい……」
 エッツェル殿は驚いたような、困ったような顔で私を見つめた。きっと私は怒りながら泣きそうな顔をしているのだと思う。
「……フェンリル……」
 エッツェル殿の返事を待つ間、私は唇を引き結んで彼をじっと見つめた。そうでないと何だか泣いてしまいそうだったからだ。
 そして、やがて頭上にぽんと大きな手が乗せられた。
「……ありがとう。そう言ってもらえるのを嬉しく思う」
 その声を聞いた瞬間。
「…………!」
 堪えていた涙が溢れてしまった。
 だって、ありがとう、だなんて。そんなふうに言われたら緊張の糸など切れてしまって当然だ。アリティア騎士が泣き顔を晒すなど格好悪いったらありゃしないけれど、抑えることはできなかった。
 そしてエッツェル殿は言った。
「フェンリル、すまんな」
 何がですか、と声にならない返事をすると、少し間を置いて彼は静かに、されどきっぱりと言った。
「あんたはやっぱりアーシェラとは違う」
「え」
 刹那、頭が真っ白になった。
 零れかけた涙も引っ込んでしまうほどの衝撃。
 私は、アーシェラさんと違う……それは、そうだけど、どういう意味で仰って……?
 彼は続けた。
「あんたはアーシェラとは違う。なのにおれはさっき、あんたとアーシェラを重ねて見てしまった。あんたはフェンリルという別の人間なのにな。おれを心配してくれていたのはあんただったのに、すまない」
「えっ……」
 一瞬意味が分からなくて、私は二、三度瞬きを繰り返した。
 彼は私の目線に高さを合わせると、じっと私を見つめた。その目は今だけは遥か遠くではなく、私を見てくれている。
「もう一度約束させてくれるか? これからはもう無茶な戦い方はしない。おれが死ぬと悲しんでくれるやつが……この世にまだいるらしいからな」
 エッツェル殿は片目を細めて苦笑した。
「エッツェル殿……!!」
 私は感激のあまり再び涙をこぼしてしまった。
 エッツェル殿が死よりも生を選んでくれた。しかも、私がそのきっかけになれるなんて。もう格好悪くたっていい、私は嬉しくて嬉しくて、「ありがとうございます」と繰り返してわんわん泣いた。
「ありがとうはこっちの台詞なんだがな……」
 エッツェル殿の困ったような呟きは私のしゃくり声に掻き消えた。

 ああ、彼はきっとすでに自分で気づいていたんだ。アーシェラさんはもういない。だからいつまでもアーシェラさんの幻影を追うのではなく、いつかは現実を受け入れなければならないのだと。ただ、そうするのがとても難しく、とてもとても時間を要するだけで……。
 この先も彼が本当の意味でアーシェラさんのことを忘れるには長い時間がかかるだろう。もしかしたら一生かかっても終わることはないかもしれない。けれど今は、モノクロだった世界に少しだけ、ほんのわずかだけど現実の色彩が蘇ったような確かさが感じられた。
 私の涙も止まった頃、やがて周囲から、はた、はた、と雫がテントを打つ音が聞こえ始めた。
「ああ、降ってきやがったか。今夜は本降りになりそうだな」
 重く立ち込めた、されど手の届かない天から落ちる雨粒。
 それは戦場を濯(そそ)ぐ恵みの雨か、はたまた亡き人に捧ぐ涙雨か――
「……朝にはきっと上がりますよ。そうしたら、明日は綺麗な花が咲いていると思います」
「そうだな……それも悪くないか」
 エッツェル殿がふっと微笑む。
 彼の心の雨もいつか止み、花が咲きますように――そう祈りながら、私はしばしエッツェル殿とともに雨音に耳を傾けた。

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