トレミレ小説 第3話『君と奏でる夜想曲』

トレミレ小説第3話です。
第1話第2話の続きなので、そちらをご覧になってからお読みいただくことをおすすめいたします。

第3話『君と奏でる夜想曲』 – Nocturne Andante –

「……以上、今月の竜騎士研修生の状況です。脱隊する者もおらず、順調に育ってきていると思います」
 午前の新人教練を終え、ミレディは報告書をまとめギネヴィア女王の執務室へ参内していた。
 ギネヴィアの親衛隊長とベルン竜騎士団隊長を兼任するミレディにとって、新人の育成も重要な任務だった。毎年4月に入隊する新米竜騎士の数は戦乱の影響で若干減少したものの、新生ベルンの治安を維持するために今年も若き竜騎士のたまごが多数訓練に精を出している。マードック、ブルーニャ、ナーシェンといった三竜将や竜騎士ゲイルなど優秀な騎士たちを失った今、最も熟練の者としてミレディが多忙な役職の兼任にもかかわらず隊長に推されたのも無理のない話であった。
「ご苦労様、ミレディ。疲れたでしょう。弟君(おとうとぎみ)もお元気かしら?」
 ふわりと微笑んでギネヴィアが尋ねたのはミレディの弟である竜騎士ツァイスのことだ。彼もまたミレディとともにロイの軍に加わりベルンに槍を向けたため、当初はベルンからの風当たりは厳しいものがあった。だが持ち前の勤勉さや熱心さ、そして姉に負けずとも劣らぬ技術、何よりベルンに対する愛国心によって次第に部下たちにも慕われ始め、今ではミレディの右腕となって新人教練に力を注いでいる。
「ええ、おかげさまで順調なようです。彼が私を追い越すのも時間の問題かもしれません」
「まあ、それは頼もしいわね。彼が隊長職を務められるようになればあなたの負担も減るのだけど」
「ふふふ、それが実現するのもそう遠くない未来かと思います。可愛い彼女もいるみたいですし、頑張っていますよ」
「あら、エレンのことかしら? ロイ様の軍でも、男性が苦手なエレンが彼とだけは親しく話していたものね」
「はい。今も仲良くやっているそうです」
 ベルンの将来を担う明るい話題にギネヴィアとミレディは自然と笑顔になる。
 動乱後の一年こそ反ギネヴィア派の説得や諸外国への謝罪に明け暮れた暗い時期が続いたが、復興に向けて一歩一歩進み、明るい話題も増えてきたのは明白だ。同時にギネヴィアの手腕は誰もが認めるところとなり、名実ともにベルン女王として国民にも諸外国にも受け入れられるようになった。安定へ向けた第一段階は突破したと言っても過言ではないだろう。
「……ミレディ、あなたには本当に感謝しています。あなたの働きのおかげでどれだけ私が、ベルンが救われたことか」
「な……何を仰るのです! 陛下のお役に立てるのならば我が本望、当然のことです」
「でも……あなたも大切な人を失ったばかりだったというのに」
 ゲイル。ベルン竜騎士時代の良き戦友であり仲間、いや恋人と言っても良かったかけがえのない男性。互いに自らが剣を捧ぐ主のために戦い、そしてゲイルは散った。ミレディはそっと瞼を伏せる。
「……彼は、厳しい人でしたから。もし私が落ち込んでばかりで毎日泣いて過ごすだけになっていたら、彼は私を手厳しく叱ったと思います。前を向け、お前の信じるもののために戦え、って……。だから、もう泣くのはやめにしました。彼はきっと、そんなことを望んではいないから」
「ミレディ……」
 ミレディは、微笑んでいた。瞳の奥には隠しようもない深い海のような悲しみが滲んでいたが、前を向いて生きる光をたたえた、力ある微笑みだった。数ヶ月前には見られなかった、光。
「……ゲイルはあなたが強く生き、幸せになることを望んでいるのですね」
「はい」
 凛とした返事。泣きたいほどに切なく、眩しい笑顔だとギネヴィアは思った。
 ミレディ同様、亡き兄ゼフィールのことを思い出す間もないくらいに走り続けてきたギネヴィアにとって、その言葉は救いでもあり希望であった。
 ゼフィール兄様、見て下さっていますか。ギネヴィアは今、ベルンのため頑張っております。褒めてくださいますか――。
 ギネヴィアは天に向かって祈りを捧げた。
「ありがとう、ミレディ」
 ミレディは無言で首を振る。もはや言葉は必要なかった。
 ところが突然ギネヴィアは何かを思い出したようにぱっと声音を変え、ミレディに詰め寄った。
「……しかし、あなたはそうは言っても働きすぎです。一番最近休みを取ったのはいつです?」
「えっ」
 まさかの不意打ちにギネヴィアは慌てて身体を引く。
「い、つ、で、す? さあ仰いなさい」
 怒ったようにつかつかとミレディの目の前まで詰め寄るギネヴィア。これは逃れようがない。ミレディは冷や汗をかきながら恐る恐る答えた。
「え、っと……終戦記念の日でしょうか……」
「まあっ! 半年も前ではないですか! それは働きすぎというものです!」
「し、しかし私は竜騎士団隊長でもありますし……亡き竜将の方々やゲイルのぶんまで働きたいと……」
「それは立派な心がけです、でも!! それとこれとは別です! あなたが一生懸命なのはもちろん嬉しい……でもあなたは騎士である前にひとりの女性なのですよ、もっと自分を大事になさい! たとえ天国の兄上やゲイルがお許しになったとしても私はそのような無茶は許しません!!」
 頬をひっぱたかん勢いでギネヴィアはまくし立てた。その剣幕に押され、ミレディは一歩二歩と後退する。
「す、すみません……」
「まったく、すみませんで済まなくなったらどうするのですか! それに、あなたが心配だからという理由だけこう言っているのではないのです。私は、あくまで人間的な生活の中で皆が頑張れる国を作りたいのです。それなのに軍のトップに立つあなたが無茶な働き方をして倒れたらどうします? 部下に示しがつきませんよ。今だってあなたが働き詰めるせいで部下は休みを取りづらく思っているかもしれません。そういった意味でも、私はそのような無茶を許すことはできないのです!」
「……陛下」
 はっとしてミレディは顔を上げた。自分は丈夫なほうだし、多少無理をしても倒れることはないから休みを取る必要などないと思っていたが、それは完全に独りよがりな考えだったと痛感させられた。ギネヴィアの諫言は、国としての利害を考えたうえでのものだったのだ。
「……申し訳ありません……浅はかでした」
 ミレディは考えの至らなかった自分を恥じて頭を垂れた。
「分かってくださればよいのです」
 ギネヴィアも声のトーンを落ち着けて優しく答える。
「ミレディ。今週で新人竜騎士の教練は一段落するわね? その後三日間、新人配置の準備日として間があるはずです。あなた、そこで休暇をお取りなさい」
「えっ!?」
「一週間どうぞとはまだ言えないのが申し訳ないけれど……」
「い、いやしかし、三日も抜けては……」
「ミレディ。自分を買い被りすぎていませんか? こちらには私やツァイスもいるのですよ、終戦直後ならともかく、今あなたが三日間抜けたくらいのことでこのベルンはびくともしません」
 わざと辛辣に言ってギネヴィアはいたずらっぽく笑った。
「だから少しゆっくりしていらっしゃい。久々に親御さんに顔を見せて差し上げるもよし、いつもとんぼ返りなイリアでのんびりするもよし」
「親、はともかく……なぜイリアを?」
「あら、あなたいつもイリア帰りは生き生きしているじゃありませんか。部下からも聞いていますよ、イリアでの隊長はとても楽しそうに笑うと」
「そ……それはっ……!」
 ミレディは言葉に詰まった。反論できない。イリアに行けば雄大な森や高い空がいつも迎えてくれる。そして旧友とのゆるやかな時の流れが。しかしそれがギネヴィアや部下にはっきり分かるほどだったとは……確かに昔から嘘の付けない、顔に出るタイプだと言われてはいたが。
「そう……ですね。イリアは好きです。とても素敵な所だと思います」
 ミレディはイリアの木々やせせらぎを思い浮かべながら頷いた。その光景の中では、榛色の髪の男性が川べりで釣り糸を垂れている。
「たまには仕事抜きで行ってらっしゃいな。きっとイリアのお友達も喜んでくれますよ」
 ギネヴィアがにっこり笑う。
「……分かりました。では、お暇を頂くことにします」
「ええ。それでまた元気な顔を見せてちょうだい」
 まったく、この姫様――いや、女王陛下には敵わないな、とミレディは苦笑した。陛下の仰るように、久々に両親に顔を見せに行こう。動乱の際にはエトルリア側に加担した私のせいで相当肩身の狭い思いをさせてしまったはずだから、そのことも謝らなくては。それからイリアへ行こう。きっとあの人はまた私の名を忘れているだろうけれど、いつも通りあたたかく迎えてくれるだろう。
 そう考えながら、ミレディはギネヴィアの思慮深さに感謝した。
 

「トレックどのへ
 お勤めご苦労様です
 このたび連休を頂けることになりました
 つきましては 二日間ほどイリアに滞在しようかと思うのですが 週末のご予定はいかがでしょうか
 もしよろしければ またお付き合いいただけると嬉しく思います
 ミレディより」
 まるで業務連絡か何かのような堅い文面の手紙を読みながら次第に肩を震わせ始めたのは、トレックの親友ノアとその恋人フィルだった。
「何だこりゃ!? おいトレック!!」
「ここここれは、どういうことですかっ!?」
 文面こそ堅苦しいものの、その内容はデートのお誘いそのものである。送り主にその意識があるのかどうかは不明だが、色々と勘違いされてもおかしくない内容だ。
 業務を終えたトレックが行きつけの定食屋で、そういえば手紙が来ていたっけとズボンのポケットから手紙を取り出し封を開いてみると、この質素な便箋が入っていたのだ。イリアカレーを食べながらその文面をぼんやり読み返しているうちに、背後に現れたノアにうっかり奪い取られてしまった。
「……まぁ、どうせおれ今週末休みだし」
 さして怒ることもせず、トレックはノアの手から便箋を取り戻してのんびり言った。
「いやそういう問題じゃないだろ……。いいか、二日間だぞ。つまり泊まりで来るって言ってるんだぞ。それでお前に会いたいって言ってるんだぞ。いくら寝ぼけたお前でも何も思わないわけがないだろう!」
 ノアはトレックの正面に回りこみ、カレーの皿ががちゃんと音を立てる勢いで椅子に座った。
「んー、べつにそういう関係じゃないし……」
「でもほら、その……泊まる所とか」
 フィルが胸の前で手を組み合わせて妙に楽しそうに言う。剣ひとすじに見える彼女が意外とロマンチストなのは、すでにノアもトレックも知るところだ。
「そうだよトレック! お前泊めてやれよ、お前んち広いだろ」
「はあ? そりゃまたなんで」
「だってその手紙から察するに、ミレディさんは多分お前とゆっくり過ごしたいんだぜ? だったらお前んちでエデッサワインの一杯でも振舞ってやるのが礼儀ってもんだろ」
 我ながら少し無理があるか、と思いつつもノアは力説した。ノアが察するに、ミレディはおそらくトレックに好意を抱いている。そしてトレックもそれを悪くないと思っている。けれどそれが確信に至るきっかけがないから前へ進めずにいる。だからこのふたりがもっと接近する機会があれば……。そう考え、ノアは「お前が泊めてやれ」と繰り返した。
「うーん、彼女がそれでいいんならおれは構わないけど……」
「だったら決まりだ! しっかりエスコートしてやれよな、滅多にないミレディさんの休暇なんだからさ!」
「へいへい。良いワインあったっけなぁ……」
「では今から買いに参りましょう! 私、選ぶのお手伝いします!」
 妙に乗り気なふたりに挟まれ、トレックはゆっくりカレーを味わう間もなく酒屋へと連行されたのだった。

 そして週末。実家に一泊して久々に両親との団欒を楽しんだのち、ミレディはイリアへと飛び立った。
 仕事もなく、時間に追われることもない。真面目さゆえ完全に仕事から頭を開放することはできないまでも、普段の外交用の礼服とは違った軽装でミレディはゆうゆうと空を舞った。
「トレックどの!」
「やあ、あんたはえーと」
「ミレディです」
「そうそうミレディさん」
 いつもの挨拶を交わし、ミレディはひらりと河原に舞い降りた。
「ああ、なんか雰囲気が違うと思ったら私服なのか」
「えっ、あ、変でしょうか?」
 相変わらず細かいところにはよく気がつくトレックに驚きつつミレディは袖を押さえる。私服と言ってもチャコールのタートルネックに黒のズボンというシンプルなものなのだが。
「いや、いいんじゃないかな、そういうのも」
 まるで天気のことでも話すような口調で自然に言われ、ミレディは柄にもなくどきりとして手を当てた。先制攻撃を受けた気分である。
「ト、トレックどのこそ今日は釣り道具を持ってらっしゃらないのですね?」
「ああ、うん。今日はゆっくりできるんだろ? 観光でもどうかなーと思って」
「観光、ですか?」
「うん。せっかくだし」
 ミレディとしてはいつものようにのんびり釣りを楽しむだけでも十分だったのだが、さりげないトレックの心遣いが嬉しくて胸があたたかい気持ちに包まれる。
「……はい! ぜひ」
 ミレディは花のように笑った。いつもぼんやりとしているトレックの目ですら一瞬奪われたのは不可抗力というものであろう。
 さて、さすがに私用で飛竜を乗り回すわけにはいかない。仕事で来る際に利用する竜舎の一般客用の窓口でトリフィンヌを預け、ミレディとトレックは徒歩で移動することになった。
「今では一般客用の竜舎も増えましたね」
 竜舎を振り返りながらミレディは嬉しそうに言った。戦後最初に来た時には飛竜を河原に待たせるしかなかったのに、今ではベルン向けの竜舎産業がしっかりと根づいている。値段はそれなりにかかるものの、個別のケージを与えられ、ベルンから雇い入れた飛竜の専門家の栄養管理下で給餌等の世話をしてもらえるので、よりベルンからの往来が容易になった。
「そうだなぁ。けっこう観光に来るよ、ベルンの人」
 先程も、トリフィンヌの他にもケージで過ごす飛竜が何体かいた。かれらの主人もまた一般客としてイリアへやって来た旅行者なのだろう。
「ふふ、嬉しいです。こうしてもっと交流が活発になれば良いですね」
 こうした民間でもギネヴィアの努力が実を結びつつあるのを感じ、ミレディは自分たちの働きが報われた思いがした。
 竜舎をあとにしたふたりが向かったのはイリアの川をめぐる遊覧船だった。さわやかな沢風に吹かれながら豊かなみどりの木々の間を縫うように船はゆっくりと進む。十名ほどの客を乗せた船を操るのは初老の船頭で、戦乱が終わって孫も帰ってきたし客も増えたのだと喜んでいた。
 目を閉じると、さらさらと清流を運ぶ川のせせらぎと森を飛び交う鳥たちのさえずり、「きれいだねえ」などとのどかに談笑する他の客の声などが身体の中に染み入ってくる。日々の喧騒や多事多端から心が解き放たれ新たに生まれ変わるような、そんな癒しあふれる静寂。隣のトレックを振り返ると、彼もまた目を細めてゆっくりと流れてゆく景色に心を預けていた。ミレディの視線に気付いてふと微笑む。大自然に抱かれて、言葉など必要ない時が過ぎた。
 その後もイリア牧場でペガサスの毛刈りショーを見たり『動物ふれあいコーナー』でウサギやリスと戯れたり名物の牧場アイスに舌鼓を打ったりで、気が付けばもう太陽が山の縁に沈んでしまっていた。
「ああ! 本当に楽しかったわ。ありがとうございます、トレックどの」
 服についたウサギの毛を払いながらミレディは晴れやかな笑顔で言った。屈託のない、とてもベルンの重鎮には見えない少女のような笑顔だ。
「あんた、動物好きなんだなあ」
「はい、実はそうなんです。引退したら動物を飼うのが密かな夢なんですよ」
 照れくさそうにミレディは言う。
 予想外に動物たちに目を輝かせ、日が暮れるまで『動物ふれあいコーナー』に居座ったミレディを微笑ましく思いながらトレックは目を細めた。
「……そういえば、あんた今日泊まる所は?」
 辺りはすっかり宵闇色。ふと思い出してトレックは尋ねた。
「あ、もうそんな時間ですか……いえ、まだ決めてないんです」
「んー……もしよかったらおれのうち、部屋空いてるけど」
「えっ……?」
 思わずミレディの声は上擦った。それはそうだろう、同年代の異性の家に誘われれば戸惑うのが当然の反応だ。相手を意識していれば、しているほどに。
「動乱の前はさあ、ノアと一緒に今の家を借りてたんだ。でもあいつ騎士団辞めてイリアを出て行ったから部屋が余ってるんだよなあ。引っ越すのも面倒くさくてそのまんま住んでるんだけど」
 トレックのほうは何の緊張感もない口調で淡々と話す。素で言っているのか、ミレディを警戒させないために言っているのか、それともミレディが泊まりに来ることなど何とも思っていないのか……。三番目だとさすがにミレディも女として少し寂しいものがある。が、今までの付き合いからして、意外なほど細かな気配りのできるトレックがそこまで鈍いようには思えなかった。
「……良いんですか?」
 そう言うとトレックは一瞬驚いたように瞬きをした。もしまったくミレディを意識していないのであれば返ってこない反応だ。
 トレックの申し出が唐突だったので戸惑ってしまったけれど、「この人となら絶対悪いようにはならない」――そんな確信がミレディにはあった。それに何より、せっかくゆっくり過ごせるのだからまだまだ一緒に話がしたい。だから、ミレディは少し緊張しながらも、
「では、お言葉に甘えさせていただこうかしら」
 にこりと笑ってそう言った。
「……じゃあ、何か食べるものを買って帰ろうか」
「はい」
 心が躍る――言葉で表すとそんな感じだろうか。ふわふわと落ち着かないのだけれど、あたたかい。先行きは分からないのに、決して嫌じゃない。そんなかつてない穏やかな高鳴りを胸に秘め、ミレディはトレックの背中を追いかけた。
 私は、この人のことが好きなんだわ。
 かつて抱いた恋心に比べ、あまりにやわらかな感情だったから今まで確信できなかったけれど。
 彼と再会して胸にともった小さな灯火の正体は、これだったのだ。

 トレックがエデッサ城下町で下宿している家は、ノアとかつて各自個室を持っていただけあって一人住まいにしては広い。家の中はだいたいいつも小綺麗に片付けてあって、別段客人が来る予定があっても普段と大して変わることはない。トレックいわく「掃除は何も考えずにぼーっとしながらできるから嫌いじゃない」そうで、決して几帳面というわけでもないのだが。
 しかし物が少なく味気ないかと言われればそういうわけでもなく、窓際には小さなサボテンや観葉植物が置かれ、棚の上には帆船の置物や馬のぬいぐるみが程良い間隔で鎮座していたりする。本棚には毎月購読しているのか、『月刊釣り道楽』『月刊うまめぐり』という雑誌が何冊か並んでいた。
 そんな自宅に彼女を案内し、トレックはリビングを兼ねたダイニングのテーブルに夕食の場所を定めた。その夜は、あまり料理の得意でないミレディにトレックがイリア料理を振舞い、話がはずむうちにエデッサワインもすぐに一本空いてしまった。ノアやフィルと買いに行った際に余分に買っておいて正解だったかもしれない。
 木製のダイニングテーブルで向い合って座り、ゆるやかな会話が途切れることなく続いてゆく。
「ではトレックどのはお兄さんと妹さんがいらっしゃるのですね」
「うん。兄ちゃんはおやじの後継いで農家やってて妹はペガサス乗りになってるんだ」
「お兄さんがご実家を継いだから、トレックどのは騎士に?」
「んー、それもあるけど半分はずれ。おれさぁ、牧場でも話したけど動物が好きだったんだよなあ。だからはじめは厩務員として騎士団に入ったんだ」
「え! そうなのですか」
「そう。馬の世話する仕事ができたらなーって。でも乗馬の技術が偉い人の目に止まったらしくて、知らないうちにソシアルナイトの名簿に名前が入ってた」
「そ、そんなことって……! すみません、笑いが……あははは」
「おれもびっくりしたよー。でもまあ傭兵騎士団なんてそんなもんかなあって思ったからそのまんま続けたけど。馬に関わるのは変わりないしまぁいいかって」
「それで今ほどの腕前になられるなんて、その偉い方というのは見る目があったのですね」
「うん、ゼロット将軍だよ」
「あぁ、なるほど!」
「ノアと出会ったのもその頃だったかな。確か初めてコンビ練習組んだ相手があいつだった」
 普段さほど饒舌でもないトレックも、今日ばかりは会話を楽しんでいるのを実感した。別段酒の力を借りているわけではない。自分から好き好んで飲むことはしないものの、彼はいくら飲んでも多少頬が赤くなる程度でなんら素面と変わることはないからだ。つまりこれは相手あってこそのもの。人間誰しも話しやすい相手、一緒にいて心地良い相手というものがあるというが、今向かい合っているのがまさにその相手なのかもしれないという思いがかすめた。
 エデッサワインを気に入ったと言うミレディの頬はいくぶん赤い。しかし酒に不慣れな歳でもないのでお互い自分のペースというものをよく知っているから、酔っ払うほど飲み過ぎることもなく良い具合にふたりの間に彩りを添えている。ベルン動乱の行軍中にも時折酒が振舞われたことがあったが、その時もミレディは決して翌日に持ち越さない、楽しむ程度の飲み方を分かっていた。それを知っているからトレックも安心してミレディにワインを勧めることができる。
「あんたにも弟がいたよなあ、えーと確か……」
「ツァイスです。相変わらず名前を覚えていませんね、ふふふ」
「あぁそうそうツァイス。今もベルンにいるのかい?」
「はい。どんどん頭角を現してきているので、来年の今頃の竜騎士団隊長は彼が務めているかもしれません」
「へえ、大したもんだなあ。ああ、そういえば、すごくうまそうなりんごがなってる木があったんだけど手が届かなくてさ、ぼーっと見上げてたら彼が取ってくれたこともあったっけ」
「まあそんなことが? りんごと言えば、このりんご美味しいですね。やはり北国のりんごは格別です、ツァイスたちへのお土産にしようかしら」
「イリアりんご? 市場にたくさん売ってるよ、明日買いに行こうか」
「いいんですか? ぜひご案内いただけると嬉しいです」
 話題はあちこちへのんびり蛇行しながら移ろってゆく。いくら喋っても飽きることのない時間が続き、日付が変わったのにも気付かなかった。
「それで……私はギネヴィア様もそろそろご結婚なさっても良いと思うんです。本当は……ロイ様のことがお好きだったのではと思うのですけど……」
「うん」
「でも……ロイ様には……リリーナ様がいらっしゃるし……」
「うん、そうだなぁ」
「……、…………」
 そして時計の針がずいぶんと回った頃、ミレディはテーブルに伏せるようにしてそのまま眠ってしまった。ベルンから飛んできて一日イリアを観光し、ずっと喋っていたのだから無理もない。むしろもっと早く横になるべきだったくらいだ。けれどどちらからも話を中断しようとしなかったのは、もっと話していたいというふたりのささやかな我儘が共通していた結果だろう。
 規則正しく上下する肩にそっとタオルケットを掛けてやってから、トレックは窓辺に立った。
「ふあぁ……もう夜明けか」
 気付けば空が白み始めている。夜以外にもしょっちゅう眠っている自分が夜すら眠らなかったのはいつ以来だろうか。自分でも軽く驚きながらトレックは眠るミレディを振り返る。
 艶のある赤毛で半分隠れた横顔は、自分には勿体無いくらいに綺麗で、無防備だ。眠いのに、その寝顔を眺めていると心があたたかく、安らかになる。その悪からぬ感覚がつい今しがた始まったものかと問われれば答えは否だろう。はっきりとは分からないが、多分ノアたちに茶化されるよりもずいぶん前から芽生えていたこの感覚。惹かれている、なんて言うと大袈裟だけれども、彼女の笑顔をできるだけ長く見ていたいなぁ――そんなふうに思った。

 楽しい時間というのは飛ぶように流れる。仮眠をとった後少し遅めの朝を迎え、エデッサの市場でイリアりんごを土産に買うと、どちらからともなく別れの時間を意識せざるをえなかった。ミレディが日が暮れるまでにベルンに着くにはそろそろ発たねばならない。
 竜舎へと向かうにつれて、少しずつミレディの言葉は少なくなってゆく。イリアで二日間もゆっくり過ごせたのだから満足だろうと自身に言い聞かせるが、まだまだ帰りたくないと我儘を言うもうひとりの自分がいる。いや、帰りたくないと言うよりも別れたくないと言ったほうが正しいのかもしれない。もちろん、だからといって明日の仕事を欠勤するなどという選択肢はさらさらないのだが、今日ベルンへ帰れば次はいつまたイリアに来られるか、トレックに会えるか分からない。早ければ来週かもしれないし、遅ければ数ヶ月後かもしれない……。そう思うと、昨日今日でじゅうぶんに満ち足りたはずなのに、それだけに余計に別離の寂しさがつのった。
「……この辺りでもう大丈夫です」
 竜舎の門の手前でミレディは立ち止まった。寂しいけれども、それを補って余りある幸せな二日間だった。だから、ミレディは寂しさを滲ませながらも笑顔でそう言った。
「本当に……ありがとうございました。とても楽しかったです」
 トレックも静かに頷く。
「おれも、楽しかった」
「また来てもいいでしょうか」
「うん。……いつでも」
 トレックの返事に満足してミレディはふわりと笑う。そして「じゃあ、また」と竜舎の方へ向かって歩き始める。別離の寂しさを、この二日間で貰った元気に変えて。
 門まであと数歩となった時。
「ミレディさん」
 期せずして呼び止められミレディははっと振り返った。穏やかなトレックの目がまっすぐにミレディを捉えている。そして、いつもと変わらないゆったりとした口調で言った。

「今度はおれがあんたに会いに行くよ」

「…………!!!」
 飾り気のない、されど素朴で純真なその言葉は、ミレディをしばしその場に釘付けにするのに十分な力を持っていた。驚きのあまり見開かれた瞳は次第に細められ、やがて輝く笑顔へと変わる。
 この日一番の笑顔を惜しげもなくトレックだけに向けてミレディは大きく頷いた。
「……はい!」

 イリアの夏空に飛竜が舞う。麗しき女主人を乗せた竜は、イリアの深き森のような千歳緑(ちとせみどり)の翼をいっぱいに広げ、エデッサ上空をくるりと旋回してから颯爽とベルンの方角へ翔び立った。空の青と入道雲の白の間にその姿が消えるまで、心許せる人に温かく見守られながら――。

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