トレミレ小説 第4話『焼きいも』

幕間からの続きです。
季節は秋になりました。

第4話『焼きいも』 - Sweet, Sweet Potato –
 
 まだいくばくも満月を迎えぬうちにイリアの短い夏は終わりを告げ、いつしか茅蜩(ひぐらし)の声は野山から消えていった。高く遠くなった秋空に、色が映える。一面が色に輝く小麦畑は間もなく収穫を迎えることだろう。
 そんなある秋の日、流れ行く白いをぼんやりと眺めていたトレックに一通の手紙が届いた。差出元はベルン。見慣れた飾り気のない封筒を開くと、そこにはこれまた見慣れた丁寧な文字で文章がられていた。いつもと違ったのは、やたらと文章の前に行間が開いていたこと。まるで、差出人がどう切り出すべきか書きあぐねたが何行にも渡って記されているかのように。
 
「来月、見合いをすることになりました」
 
 トレックの手から、手紙が落ちた。
 
 
 ること一週間。
 ベルン竜騎士団はこの日祝賀色に染まっていた。それもそのはず、副隊長であるツァイスが結婚式を挙げたからだ。相手は長年懇意にしていた女王付きのシスター、エレンである。もともと交流はあったのだが、動乱を経てより絆を深めたふたりは戦後もプライベートでの付き合いを続けていた。それは周囲にも認知されていたが、冷やかされるでも噂されるでもなくそっと見守られてきたのはこのふたりの仲がし出すあたたかい雰囲気の賜物であろう。
 披露宴には両家親族をはじめ、多数の竜騎士隊員やベルン要人らが参加した。次期隊長をされるツァイスはもうどこへ出ても恥ずかしくない朗々たる調子で誓詞を読み上げ、そばに寄り添うエレンは純白のドレスに包まれていつもにも増して可憐な微笑を浮かべていた。
 フラワーシャワーで祝福されるふたりは本当に幸せそうで、今後のベルンの復興を照らす光のようでもあった。
 式の後、目尻の涙を拭いながらミレディは母親に言った。
「あーあ、先を越されちゃったわ」
 いつまでも子どもだと思っていた弟。動乱中には子ども扱いするなと怒られたこともあった。その弟がこうして立派に巣立っていっているという事実は、姉としては寂しいものがないわけではない。けれど彼の凛とした横顔は、もうベルンの隊長職を譲っても大丈夫だという安心を感じさせるそれで、その成長を誰よりも喜んだのもミレディであった。
「あら、あなた自分であの子が先に結婚するのを許したんじゃない」
 母親が微笑む。そう、ツァイスは婚約前、いまだ未婚の姉に気を遣って結婚の是非をミレディに求めに来たのだ。一般の女性ならまだしも、ベルンの要職にあるミレディが弟に先を越されてはその面子が潰れることになるかもしれないと考えてのことだった。戦い方は実に豪快なくせに、そんな細やかな気遣いが本当に彼らしい。男性が苦手なエレンも彼のそういった優しさを愛したのだろう。
 もちろんミレディは二つ返事で了承した。ともに長年ギネヴィアに仕えたエレンと実弟が結ばれるなどこの上ない喜びである。
「ふふ、そうね。素晴らしい式だったわ」
 ミレディは挙式を思い返して目を細めた。
「あなたはまだ結婚しないの?」
 ふいに母親に尋ねられてミレディは一瞬言葉に詰まった。
 結婚……か。
 以前ならば、いつかはゲイルと……と考えたかもしれない。しかし彼はもうこの世にいない。心の整理もつけたつもりだ。だから『結婚』など当分考えもしなかった――考えることを放棄していた言葉だった。
「私は……きっとまだ先ね。仕事も忙しいし」
 ミレディは苦笑して答えた。
「そうは言ってもあなたももう年頃、いいえ、婚期を過ぎそうじゃないの。母さんが生きているうちに孫の顔も見せないつもり?」
「もう、母さんってばなんだから。結婚する気がないわけじゃないから安心して」
「でもあなた、動乱以来何の話もないじゃない。誰か良い人、いないの?」
「良い人……」
 ミレディは親族控え室の窓の外にふっと目を向けた。どうしてそうしたのか理解するより前に、視線は青い空の彼方に向けられていた。頭の中にぼんやりと“良い人”らしきもやが浮かぶ。もやは形を変えつつ、やがてひとりの男性の顔をゆるゆると描いた。榛色の髪をしたその男性は、とても穏やかに笑っていた。
 彼と時を過ごすのは楽しい。安らげる空間がそこにある。これからも、もっと一緒にいたいと思う。おそらくこの感情が「好き」とか「恋」とか呼ばれるものであっても、それを否定するつもりもない。
 だけど……
 だけどそれが何だと言うのだろう?
 結婚を約束した人でもない。恋人ですらない。住んでいる場所さえ遠く離れている。良い関係だとは思うが、例えば親に堂々と紹介できるような関係かと問われると、そんな保証はどこにもないではないか。
 押し黙ったミレディの心情を違う方向に解釈したのか、母親は言った。
「もし良い人がいないのなら、あなたに縁談が来ているの。お会いしてみたらどうかしら?」
「え、縁談!?」
 ミレディはまさかの展開にぎょっとして、跳ねるように母親を振り返った。
「ええ。エトルリアのさる高貴なお方よ。決して悪い話ではないと思うわ、あなたに良い人がいないのならなおのこと」
「で、でもそんな急に……!」
「大丈夫、今日明日のことじゃないから。来月会いに来たいと仰っているのよ」
「そういうことじゃなくて……!!」
 ああ、今「恋人がいます」と言えたらどんなに胸のつかえが下りることか。そう言ってしまいたい高まりをミレディは歯がゆい思いで抑え込む。恋人の約束も交わしていない、まして互いに国を離れられない重要な役職のある身だ。それなのに勝手に都合の良い方に考えられるような根拠不在の自信など、堅実なミレディが持ち合わせているはずもなかった。
 そうして結局うまい断り文句を考えつくこともできず、「とりあえず一度お会いしてみましょう」と母親に丸め込まれてしまったのだった。
 
 
「はぁ……」
 夜中、実家の自室でひとり溜息を落とす。
 いったいどうしたものだろうか。言うまでもないが、見合いなどしたくはない。しかしツァイスくらいの年齢で結婚するのが一般的なこの国においては、自分は母親の言うとおりもうじき婚期を逃す年齢まで来てしまった。同年代の友人達もほとんどが結婚してしまい、友人として何度挙式に参列したか分からないくらいだ。今はまだ「竜騎士団隊長としての仕事が忙しいんでしょう」と周囲も目を瞑ってくれているが、冷静に考えてみれば結婚の心配をされ始めるのも時間の問題だ。母親が縁談に乗り気なのもおよそ無理のない話であった。
 机の上には便、右手には羽ペン。もう何分間こうしているか分からない。文字を書こうとしては止め、書こうとしては止めを繰り返してついに時計の針は零時を回ってしまった。
 先に書いた宛名書きには丁寧な文字でトレックの名が書かれている。しかし肝心の文面にまったくペンが進まず、溜息の繰り返しなのだった。
 そもそも、恋人でもないトレックに縁談のことを知らせる必要などないのだ。けれどミレディはあえて書面に託すことにした。自意識過剰と思われたって構わない、ただ自分がされて嫌なことはしたくないだけだ。仮にもし、自分の知らないところでトレックが誰かと見合いなどしていたと後々に知ったら――きっと自分は傷つく。自分はそれを伝えられるべき存在ですらないのかと深く傷つくだろう。だからペンを取った、震える手で。
「縁談をお受けしても良いでしょうか……ダメだわ、私はトレックどのに許可を貰う立場ではないもの」
 恋人未満な状態で許可を求めるのもおかしな話だ。これではトレックを困らせてしまう。
「縁談をいただいたのですがどう思いますか……ダメダメ、まるで私がトレックどのを試しているみたいじゃない」
 「行くな」という答えを期待しているかのようで胸がむず痒くなる思いがした。そんない文章など書きたくはない。
 長考の結果、結局簡潔に見合いをすることになった旨だけを書くにとどめた。
「はぁ……」
 手紙に封をして、何度目になるか分からない溜息を落とす。
 今度会う時、どんな顔をして会えば良いのだろう。
 ミレディは机に突っ伏すように、頭を抱えた。
 
 
 一方、その手紙が届いた後のイリアでは。
「うーむ」
 ある男性が唸った。
「どうなさったのです、あなた?」
 夕食に使用した食器を洗いながら妻が尋ねる。男性は、居間に立派なソファがあるにもかかわらず、台所のダイニングテーブルでひとときのくつろぎの時間を過ごしている。こうして食事の後片付けをする妻の近くに座って会話をするのが日々の習慣であるからだ。
「うーむ……それがな、どうも最近トレックの様子がおかしいのだ」
「まあ、トレックが?」
「ユーノは何か心当たりはないか?」
 妻ユーノは問われて首を傾げる。トレックは夫であるゼロットの直属部隊の小隊長だ。ここエデッサに仕事で来ることもたびたびあるため、ユーノも時折顔を合わせている。
「いえ……特にありませんが。どうおかしいのです?」
「元々ぼーっとした奴なんだが、最近は何と言うか……」
 ゼロットは眉間に皺を寄せた。
「さらに、ぼーっとしているんだ」
「さらにぼーっと?」
「ああ。心ここにあらずといった雰囲気で、呼んでもまるで聞こえていない時すらある」
「まあ、それは気がかりですわね……」
「ここのところ仲間のも無いし、気落ちする原因は思い当たらんのだがな……ううむ」
 心底分からない、といった表情で首を捻るゼロットを見つめながら、ユーノは口には出さなかったがひとつの心当たりを思いついていた。
 エデッサ場内で顔の広いユーノの耳には、夫に比べて格段に多くの噂話が侍女たちから入ってくる。その中にはイリアに足しげく通う赤毛の竜騎士の噂も勿論含まれていた。かつて動乱中に最前線を受け持っていたトレックとミレディをあの頃から微笑ましく思っていたが、いまだに交流があると知って人知れず喜んだものだ。もしかしたらそのあたりが関係しているかもしれない、とユーノは密かに思った。
「では今度、私がトレックにお話伺ってみますわ」
「うむ、頼む。ちょうど明日は奴はエデッサの城の警備にやって来るはずだ、その時にでも」
「ええ」
 もし自分の勘が当たっているならば、きっとその話は色恋沙汰に鈍いゼロットには荷が重いだろう。何かトレックの力になれたら、とユーノは頷いた。
 
   *   *   *
 
 あの時の衝撃を何と表現したら良いだろう。
 エデッサ城警備任務の日の休憩時間、空になったカップを持ったままトレックは城の天井をぼんやり見上げていた。
 便箋に書かれたたった一行の文章が自分に与えた衝撃は予想よりもはるかに大きく、期せずして深々と突き刺さった。我ながら驚いてしまうほどに。
『来月、見合いをすることになりました』
 眠ろうとしてもその文字が脳裏にちらつき、いくらお気に入りの枕に横になっても心が休まらない。眠れなくて何度も寝返りをうっているうちに朝が来てしまうことすらある。普段なら目を開けて立ったままでも眠ってしまうこの自分が、何という体たらくだろう。昼間も、コーヒーをこぼしたり、誤字脱字を大量にしてしまったり、靴下を裏表逆に履いてしまったりで散々だった。
 彼女はベルンの要人で、その上はっとするような美しさと強さを兼ね備えている。弟のツァイスも結婚した今、彼女に縁談があるのも当然ではないか。何もない方がおかしいのだ。いつまでもイリアに遊びに来てくれる方がおかしいのだ。
 そう……当たり前のこと。
 それなのに。
 この、痛いような、ざわつくような、それでいて深く沈んだような暗い感覚は何だろう。
 その感覚を的確に言い表せるような語彙をトレックは持ち合わせていなかった。もっとも、心がその答えを知らないふりをしているだけなのかもしれないが。
 柱にもたれて虚空を見つめていたその時、背後から声がかかった。
「ここにいたのね、トレック」
 振り返ると、菫色の髪の女性がこちらに向かって手を振っていた。
「ユーノさん」
 上司の奥方は今やイリア代表代行夫人であり、ゆくゆくはイリア国王の后となるのだろうが、それを鼻にかけた様子など少しもなく、今も昔と変わらず気軽にトレックたちに接してくれている。良妻賢母とはまさに彼女のことだ、と評判になっているのをトレックも聞いたことがある。
 この日も昔と同じようにユーノはにこにこと話しかけてきた。
「久しぶりね、お勤めご苦労様」
「はぁ、お久しぶりです」
 特に思い当たる用事がないトレックはそこそこに会釈をした。
「最近どう? 変わりはない?」
 トレックの近くの椅子に腰掛け、ユーノは尋ねる。
「朝晩冷えるようになったくらいで、特になにも……」
「そう? なら良いのだけど。でも、それにしては浮かない表情ね?」
 こちらをじっ、と見てそう言ったユーノと一直線に目が合った。一見ふわりとした笑顔で話してはいるがその瞳に宿る力は強い。嘘や誤魔化しなど簡単に見抜いてしまう、逸らすことのできないまっすぐな眼差しだった。
「…………」
 トレックは頬を掻いて口ごもる。何と答えればいいのか……しばし躊躇った末、トレックは事実だけをたどたどしく言った。
「……ミレディさんが、見合いをするらしいんです。手紙が来ました」
「まあ、それは楽しみね!」
「はぁ……まぁ」
「……楽しみではないの?」
「……分かりません」
 いつになく神妙な面持ちでぽつりと言ったトレックの次の言葉をユーノは柳眉を下げて待つ。
「普通なら、ユーノさんのように喜ぶべきことなんですよね……」
 そう、友人が見合いをするとあらば、それを喜んで応援してやるのが普通だろう。なのに、くもった窓硝子のようなこの心のわだかまりは何だろう? 
「おれ……彼女には幸せになってほしいと思ってます、本当に。そう、思ってるんですけど……、…………」
 「けど」の後に続く、やり場のない重い感情は言葉にならない。トレックはおよそ彼らしくもない沈んだ表情でを垂れた。
「はは、すみません、何か変な話で」
 尋常ではない彼の様子にユーノも居住いを正してトレックに向き直る。
「いいえ、変な話なんかではないわ。とても大事なことだと思う」
「え……」
「あなたが素直に喜べないのは、とても大事なことなのよ、トレック」
 真剣な目でユーノに言われ、トレックは動きを止めた。
 とても大事なこと……?
 こんなとりとめもない感情など、今日こうしてユーノに尋ねられるまでは誰にも話すつもりもなかったし、話したところで何にもならないと思っていた。ところがそれをとても大事なことなどと。
「ねえトレック。もしミレディさんが見合いをすれば、あなたとは今までのようには彼女と会えなくなるわ。それをどう思う?」
 訊かれてトレックは少し考えた後、さらりと言った。
「うーん。寂しいです」
 問うた本人のユーノも驚くくらいにあっさりとした答えだった。
「……なぁんだ、もう答えは分かっているんじゃないの」
「あれ? ほんとですね」
 そうか、このもやもやは彼女に会えなくなる寂しさだったのか。そう判明するといくぶん胸のつかえが軽くなったような気がしてトレックはユーノと笑い合った。
 しかしそれが分かったところでどうにもならない。きっと見合いの相手は少なくともいち傭兵である自分よりは確固たる地位のある者だろう。トレックは地位や財力などへのこだわりなど持っていないしそれを理由に人を判断することもないが、ベルン竜騎士団隊長にして女王付きであるミレディのこととなれば話は別だ。世の多くの人は世間体などというものをとかく気にするものだとトレックは知っている。ならば、彼女の縁談を尊重するべきなのではないか、そんな思いが心中にくすぶる。
 悩むトレックにユーノは穏やかに笑って言った。
「トレック。あなたは優しいから自分のなんて捨てようとするかもしれないけれど、これだけは覚えておいて。あなたが寂しいと思うその気持ちは、本当に、本当に大切な宝物なの。どうか後悔することのないように、その気持ちを自分の中で尊重してあげて。自分に嘘をつかないであげて。ね?」
 未来をも映すのではないかと思わされるほど強く澄んだ瞳でトレックをじっと見つめて、ユーノは切々と語った。
 人生の先輩であるユーノに諭されたトレックは知らず知らずのうちに胸の前で右手を握る。
 大切な宝物……。
「……だとしたら、ずいぶんとまた厄介な宝物ですねぇ」
「ふふ、本当ね。厄介で、複雑で、面倒くさくて、愛おしくてたまらない宝物だわ」
 トレックは苦笑して右手を開く。そこには目には見えないけれど、掌の大きさを遥かに超える感情が乗っていた。
 
 
 ミレディがひと月ぶりにイリアを訪れたのは第四週目の週末だった。
 たった一ヶ月見ないだけでイリアの森はずいぶんと緑を減らし、頬を切る風が冷たくなったように思う。ベルンではまだ半袖で汗をかく者が多いというのにイリアでは襟を合わせて足早に歩く人の姿も少なくない。
 しかしそんな肌寒さも気に留めていられないくらいにミレディの心臓は忙しく鼓動していた。
 トレックはあの手紙を読んだだろうか。何を思っただろうか。何を言われるだろうか。わざわざあんな一文だけ寄越すなんて変な女だと思われただろうか。
 そればかりが気がかりで昨夜はほとんど眠れなかった。夜が明けて目の下にくっきりできてしまったに嘆きつつおしろいをはたき、今も胃が痛くなるような緊張を抱えてどんな顔をすれば良いやら分からない。しかしイリアの竜舎にトリフィンヌを預けた今、もう腹をらなければならないのだ。ミレディは手鏡を取り出し、できるだけ何でもないふうに平静を装って笑顔を作った。
「うん、変じゃないわよね」
 鏡に向かって笑顔を作り、ミレディは竜舎の門を出た。
 待ち合わせ場所は門の近くの大きな木の下。一歩ごとに脈拍が早くなるが、距離は待ってくれない。やがて榛色の髪を確認した時心拍数は最高潮に達した。
「こ、こんにちはトレックどの!」
 精一杯いつもどおり挨拶をすると、トレックは「やあ」と軽く手を上げた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか」
「いや、おれもさっき来たところ」
「なら良かったです」
 トレックの様子はいたって普段通りの穏やかさで、自分のようにあたふたしているさまなど見受けられない。どうやらすぐに手紙の話を始める素振りもないようだ。
 少し気持ちを落ち着けて辺りを見渡すと、緋色の秋茜がそこらじゅうをついついと飛んでいてずいぶん秋めいた景色になっている。先月来たときにはまだが鳴いていたと思ったが。
「もうすっかり秋ですね」
 時候の台詞というのは何と便利なのだろう。ミレディは核心を避けて当たり障りのないところから話し始めた。
「ふわぁあ……うん、何かあったかいものが食べたくなる季節だなぁ」
「例えばどんな?」
「うーん、焼きいも、とか?」
「あはは、いいですねえ。おすすめのお店はありますか?」
「そうだなぁ……屋台でもよければ」
「ええ、もちろん構いません」
「じゃあ行こうか」
 そんな無難な会話を交わして、トレックとミレディは歩き始めた。手紙の話などまるで出そうにない雰囲気だが、今日はまだ会ったばかりなのだから気を揉むには早すぎる。ミレディは「これから、これから」と自分に言い聞かせた。
 土手沿いの散歩道をぶらぶら歩いていくと、河川敷を利用した広場のような場所に露店が点々と出ているのが見えてきた。周囲にはベンチに座って談笑する人々や、秋茜を追いかける子どもたちの姿も見える。
 土手の石階段を下り、トレックは露店で湯気の立ち上る焼きいもをふたつ購入した。
「はい」
「ありがとうございます、あ、熱っ!」
 紙に包まれてはいるものの、焼きいもの予想以上の熱さにミレディはうっかり取り落としそうになってしまった。
「はは、気をつけて。ここのはいつも焼きたてのほかほかなんだ」
「本当に熱いですね、でもすごくいい匂いです。おいしそう」
 ほっこりした秋の香りにミレディは顔をほころばせた。
 空いていたベンチに並んで座り、はふはふ言いながら黄金色の焼きいもをかじる。甘くてまろやかな味が口いっぱいに広がった。
「おいひい」
 口の中が熱いためおかしな発音になってしまうのはご愛嬌だ。トレックも熱さで返事ができないらしく、代わりに首を縦に二度三度振って同意する。
 しかし、もし縁談が進んでしまえばこうしてトレックと気軽に会うことも一緒においしいものを食べることももうできなくなってしまう。トレックはそのことについてどう思っているのだろうか。自分なら絶対に嫌だ、とミレディは思う。たとえ恋人じゃなくてもいい、けれどこの先もずっと共にゆるやかな時間を過ごしたいのだ。しかし見合い相手からすればそれは不貞行為とみなされ、固く禁じられるにちがいない。そんなのは、嫌だ。
 見合いのことを、話さなければ。焼きいもの甘さとは裏腹に、胃の痛くなるような棘が喉を刺す。
「あの、」
 ミレディはいもの皮を剥く手を止めて、トレックのほうへ向き直った。
「ん?」
 皮ごと食べているトレックがこちらを向く。だがその純朴な目を見た瞬間、出かかった言葉はしおしおとしぼみ、消滅してしまう。
「……いえ。その……秋茜、きれいですね」
 聞きたかった核心は、当たり障りのない台詞にするりと姿を変えてしまった。
「うん。この辺りはとんぼが多いから、子どもの頃よく獲りに行ったなぁ」
「網で捕まえるんですか?」
「網を使うこともあったけど、素手でもできるよ」
「手で? すごい!」
「とんぼは動くものに注目するから、こう、指をくるくるーっと回して、とんぼが気を取られてる隙にそっと」
「あぁ、とんぼが目を回すって聞いたことがあります。あれは指を注視しているんですね」
「うん、そう。顔は動かすけど、目は回ってないんじゃないかなぁ」
 そんな、いつも通りのな会話が滑っていった。
 違う、今日は話さなければいけないことがあるのに。だがどういうわけか本心は硬い貝のようにぴったりと蓋をして肝心なことを言おうとしない。怖いのかもしれない。すなわち、トレックから「見合い、応援してるよ」などと答えが返ってくるのではという恐怖だ。
「とんぼどころか、ベルンではまだ蝉が鳴いていますよ」
「あぁ、そっちはまだ暑いんだっけ」
「ええ。残暑が続いてますね」
 トレックが見合いを止めてくれる期待などない、と言えば嘘になる。都合の良い話かもしれないが、心のどこかではトレックも自分を好いていてくれているのではないかという、推測とも呼べない願望があった。しかしそれはミレディの勝手な希望であって、トレックの返事如何によってはそんなものは虚構であると思い知らされるだろう。それが、怖い。そしてそんな恐怖を抱えつつもやはり止めてくれることを期待しながら話そうとする自分が嫌だった。
「そうそう、蝉といえばこの前お城の中に蝉が入ってきていたんです」
「うん」
「もう壁に止まってるのがやっとくらいの元気のない蝉だったんです。でも弟のツァイスは蝉が苦手なので、槍の柄の先で追い払おうとしたら、」
「あー……」
「突然蝉が暴れたようにツァイスの目の前に飛んできちゃって」
「うん、来る来る。何だろうねえ、あれ。ジジジジッって鳴きながらめちゃくちゃに飛ぶんだよなあ」
 トレックは見合いのことを問う気はないのだろうか。自分のことなど気にしてはいないのだろうか。
 だがこうしていても時は無情に過ぎ去るだけだ。トレックから訊いてこない以上、いつかは自分から勇気を出して話さなければ。
「それでもうツァイスってば派手に転んでしまって。結婚式も近かったっていうのに足に大あざ作っちゃったんですよ」
「ふーん、普段はあんなに豪快な戦い方するのになあ。意外なもんだねぇ」
「ふふふ、本当に。で、騒ぎを聞きつけたギネヴィア様が来られて、何と蝉をひょいっと素手で掴むと窓から外にお放しになったんですよ、何食わぬ顔で」
「はは、さすがだなあ。意外な気もするけど、あの女王さまならその光景は何だか想像がつく」
 しかし口から出てくるのは何気ない、とりとめもない台詞ばかり。こんなこと、別に今話す必要などないのに。もっと大事な、今話さなければならないことがあるのに……!
「ええ、さすがはギネヴィア様です」
 ミレディは笑顔で言った。そんな場合ではないのに自分の表面は核心を避けるように、避けるようにと振舞う。河川敷の背の高い木に設置してある時計の針が進むたび、その歯がゆさで息が苦しくなる。まるで綿でじわじわと首を締められているかのように。
 そうこうしているうちに焼きいもも食べ終わってしまい、ミレディとトレックは紙がらを捨てるためベンチから立ち上がった。このまま何も話せなかったらどうしよう、そんながミレディを襲う。
「ごちそうさま、相変わらず美味いね」
 どうやらトレックは焼きいも屋の主人と顔見知りらしく、ごみ捨てついでに砕けた調子で話しかけた。
「おうよ、この道二十年! おめぇがガキの頃から守ってきた味だからな、がはは!」
 店主はを皺くちゃにして豪快に笑った。ミレディもトレックにって露店のくずかごに紙を捨て、店主に軽く頭を下げる。
「すごく美味しかったです、ごちそうさまでした」
 そう言って微笑むと、店主は「ありがとよ」と言いかけて一瞬目を丸くした。そしてその表情は徐々ににんまりとした笑顔になり、店主は再び豪快に笑いながらトレックの肩をばしばし叩き始めたではないか。
「よう、トレック。おめぇもに置けねぇなぁ!?」
「はあ?」
「とぼけるんじゃねぇ、まさかおめぇにこんな美人の恋人がいたとはなぁ!!」
「「え」」
 ふたりの声が重なった。
 恋人、と言ったか、この店主は。思わぬ不意打ちに心臓が跳ねた。
「はは……」
 トレックは曖昧に笑って後ろ頭を掻いた。
「じゃあな、また来いよ!」
 店主に元気よく手を振られながら、トレックとミレディは河川敷を後にした。
 突如訪れた微妙な雰囲気のまま、ふたりは無言で土手沿いの散歩道を歩く。心なしかいつもより歩く速度も早いような気がする。ミレディは赤く火照った頬を両手で押さえた。
 恋人――その言葉を肯定も否定もしなかったトレック。きっぱり「違う」と言われなかっただけまだ救いがあるが、いったいどう思っているのだろう。
 気まずいムードを振り払うかのように、ミレディはわざと明るく話しかけた。
「こ、恋人って言われてしまいましたね」
 あはは、と照れながら笑うとトレックも苦笑した。
「うん」
「そう見えるんでしょうかね、私たち」
 照れ隠しに髪を耳に掛けながらそう言ったミレディはから見てもまんざらでもない様子だ。トレックはそんなミレディを眺めて、何か思うところでもあるかのようにふと足を止めた。
「恋人、かぁ……」
 ぽつり、と呟いて空を見上げる。
「え……?」
 ミレディが訊き返すと、トレックは鰯雲を仰いだまま淡々と言った。
「なんで、みんなそうやって人のに名前をつけたがるんだろうなあ」
 何の飾り気もない、静かな声。心のうちからそのまままっすぐ出てきた疑問なのだと思わせる口調だった。
「どういうことです?」
「うん……みんな、友達や恋人、夫婦、って名前つけて言うけどさ、そんなに重要なことかなぁって。そりゃ、他人と夫婦じゃあ全然違うとは思うけど」
「……? はぁ」
 突然何を言い出したのかとミレディはぽかんとしてとりあえず頷く。
「おれにとっては、どんな名前がついてても、大事な人っていうひとくくりなんだよなぁ。呼び方が変わったからって突然好きになったり嫌いになったりするわけじゃなし」
 淡々と話すトレックの意図がつかめず、ミレディは首を傾げて「ええっと」と二、三度瞬きを繰り返した。
「あの、トレックどの? お話の意図が……」
「うん、だからさ、」
 トレックはようやく視線を空から離してミレディに向き直った。
「あの手紙のことだよ」
「え??」
 何がどうなったらそこに繋がるのかと、ミレディは素っ頓狂な声を上げた。
 普段からトレックの話し方はマイペースだし独特の間を持っている。突然遥か彼方の話題を持ち出すこともあり、本人の頭の中ではそれらはどういうわけか繋がっているのだろうがミレディは話の経緯を数秒考えることもある。中でも今の文脈はミレディにとっては難解すぎた。
「だから、見合いの話」
「あ、はい」
 何が「だから」なのかさっぱり分からないけれどミレディはこくこくと頷いた。こちらとしては見合いの話を切り出すのにあれだけ悩んでいたのに、どうしてこんな展開でひょっこり出てくるのか、軽く悩む。ともあれ、トレックの意見をようやく聞ける機会がやって来たので、膝を揃える気分でミレディは姿勢を正した。
「相手はどういう人なんだい?」
「えっと、エトルリアのさる有名な貴族の方、と聞いています」
「あぁそっかぁ……やっぱり地位のある人なんだなあ」
「地位なんて私は別に……」
「おれだって地位や名誉なんかどっちだっていいよ。けど、あんたはベルン竜騎士団の大将だろ? それに女王付きの筆頭だ。周囲の目を考えたら、そういう地位のある人と結婚するのは良いんじゃないかな」
 覚悟はしていたはずの、しかし期待とは真逆の賛同意見だった。ミレディの胸がずきんと痛んだ。同時に、続きなど聞きたくないという思いが芽生える。
「おれはさ、あんたには幸せになってもらいたいんだ」
 やめて、そんなこと言わないで。あなたのいない幸せだなんて、そんな平然と、残酷なことを言わないで――
 ミレディは顔をこわばらせ、刺すような痛みが加速してゆくのと同時に涙腺が熱くなるのを感じた。
 ところが涙が零れる一歩前で、トレックはふいに相好を崩した。
「……って思ってたんだけどなぁ」
 困ったようにはははと笑って頬を掻くトレック。
「……え?」
 涙も止まる勢いでミレディはきょとんとした。風に舞う木の葉のように、トレックの話は気の赴くままに続く。
「あんたに幸せになってほしいっていうのは本当なんだ。けど、さっき焼きいも食べてたら、あーまた一緒にこうやって焼きいも食べたいなぁって思ってさあ」
「や、焼きいもですか?」
「うん。焼きいもだけじゃない、」
 トレックは抱えきれない多くのものを表すように両腕を広げた。
「もうすぐ小麦の収穫が始まるんだけど、この時期の小麦畑って本当にきれいでさ。特に夕方は西日を受けて黄金に輝くんだ。あんたに見せてやりたいなぁ。ああ、新小麦で作ったパンがまた美味いんだこれが」
 楽しい夢を見ているかのような朗らかな表情でトレックは思いつく端から並べてゆく。
「ベルンが秋になったらそっちの紅葉を見に行って、冬が来たらこっちで雪だるま作ってワカサギ釣って、」
「トレックどの……」
 これはトレックの思い描くふたりの未来。そのひとつひとつがミレディの胸に深く響き、沁み渡る。先ほどの悲しみとは違う熱がこみ上げてゆく。
「春になったらサカへ行くのもいいなあ、サクラっていう花がきれいらしいんだ。それから牧場へ行ってまた動物と遊ぼうか。前みたいにエデッサワイン買って一晩中のんびり喋るのもいいよなぁ」
 ミレディは、うん、うん、と頷くので精一杯だった。トレックの描く未来図があまりにもあたたかく、そして眩しくて、言葉を出そうものなら一緒に涙までもが落ちてしまいそうだったから。
「だからまぁ、あんたの良縁を祈りながら言うのも我儘な話なんだけど、おれはこれからもあんたと一緒にいられたらなあって思うんだよ」
 自分で自分をしょうのないやつだと苦笑しながらトレックは言った。
 ミレディはただただ頷く。愛の告白なんかとは程遠い飾りっ気も洒落っ気もないな言葉なのに、ミレディを満足させるに足る、いや十分すぎるほどの力を持って、よどみなくまっすぐに伝わってくる。胸がいっぱいでもう顔も上げられない。
「でもそれって見合いを断らないと叶わないだろ。それで、おれは人の縁に名前なんかいらないと思ってるんだけど、もし見合いを断るのにそういう名前が必要だって言うんなら、恋人とか、そういうのもいいかもなぁって思うんだ。もちろんあんたさえ良ければ、の話だけど。あれ、なんで泣いてんの」
 ようやくトレックの話が一本線に繋がり、気がついた時にはもうミレディは号泣してしまっていた。きょとんとしているトレックの前で、えきれなくなった涙が決壊した河川のようにどうどうと溢れ出す。感情が最高潮に達したミレディは恥も外聞も捨て去って子どものように泣きながらうったえた。
「ぐすっ……わ、私は、見合いなんて、したくないです。……ひっく、私も、ずっとあなたと一緒に、いたいです」
 涙でぐしゃぐしゃになった赤い顔で、ようやく言えた本音だった。
 トレックはわずかに目を見開いた後、静かに微笑んだ。
「……うん」
「本当は、そう、手紙に書きたくて……ぐすっ……でも、書けなくて。今日も、なかなか、言えなくて、」
「うん、うん」
「見合いのこと、話さなきゃ、って思うのに、全然別の話ばっかりしちゃって、私……」
「うん、分かってる。おれもだ、ごめん」
「えっ」
 ミレディは驚いて、しゃっくりをしながら涙顔を上げた。
「まぁ……その、正直、何て言ったらいいのかまとまらなくて。あぁいつもまとまってないか、まあいいや。頭ではあんたの縁談を応援しようって思ってるんだけど、会うとやっぱりもう会えなくなるのは嫌だなあって思って。けどそれは両立できないことだしなあ、どうしようかなあって焼きいも食べながらずっと悩んでた」
「そ、そうだったんですか」
「そうだよ。でもユーノさんに言われたこと思い出したんだ」
「ユーノさんは、何て?」
「こういう我儘はとても大事なことだから、後悔しないように尊重しろって。言われた時は、あぁそんなもんかなあって思ったけど、実際あんたと会うと何となくその意味が分かった気がするよ」
「ふふ、じゃあユーノさんに感謝しなきゃいけませんね」
「うん」
 トレックとミレディは笑い合った。ミレディはハンカチを取り出して涙で濡れた頬を拭く。おしろいがすっかり流れてしまったがこの際それは些細なことだった。今となっては手紙の文頭に空いた逡巡の空行も、話の核心に迫るまでの迂回さえも些細なことのように思える。初めからこうして素直になれば良かったのだ。
「また一緒に食べましょうね、焼きいも」
「うん、また行こう」
 『また』と言える幸せを噛み締めて、ふたりは再び土手沿いの散歩道を歩き始めた。
 こころの距離が縮まって、歩くふたりの間の距離もほんの少し縮まったある秋の午後のことだった。
 
 
 その日実家に戻ったミレディは開口一番にこう言った。
「母さん! 私、見合いなんてしない。好きな人がいるの!」
 ベルンの夏に終わりを告げる大輪のひまわりよりも眩しい笑顔で――。

第5話『鍵』に進む

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