トレミレ小説 第5話『鍵』

第4話からの続きです。
晩秋のイリアにて。

第5話『鍵』 - The Key –

 秋が深まり、イリアでは木枯らしが吹き始めたある日。陽も傾きかけてきたので、トレック宅でくつろいでいたミレディはティーカップを置いて言った。
「では、明日早いのでそろそろお(いとま)しますね」
 ストーブの前のソファで雑誌のページをっていたトレックが「ん」と顔を上げる。
「あぁ、もうそんな時間かぁ。竜舎まで送ってくよ」
 言いながら、ふわぁ、と伸びをした。読みかけだった雑誌『とねっこ便り』が膝から床に落ちて、可愛らしい仔馬の写真が載ったページが天井に向いた。
「ありがとう。でも外は冷えますから、ひとりで大丈夫です」
 北風が身を切る中、この温かい部屋からわざわざ出てきてもらうのも心苦しいのでミレディは丁重に断ろうとしたのだが、トレックは落ちた雑誌を棚に片付けて外に出る支度を始めてしまった。
「んー、寒いの慣れてるしなぁ。それに今日はまだマシなほうだし」
「でも……」
「じゃあ行こうか」
 首が埋まるようにマフラーを巻いてトレックはすたすたと居間を出た。慌ててミレディもコートを着て追いかける。
「あ、もう、トレックってば」
 相変わらずマイペースなトレックに苦笑しつつ、ミレディは彼の優しさに胸中で感謝した。貴族の男性たちは皆こぞって我こそフェミニストだレディーファーストだとうけれど、所詮後付けの礼儀作法である彼らが本当の意味での思いやりを内に持つトレックにかなうはずもない。本人は意識してのことなのかそれとも無意識でのことなのか分からないが、少なくともミレディにとってはトレックのさりげない気遣いはとても居心地の良いものだった。
 ブーツを履きながらトレックは玄関脇の棚の(かご)から鍵を取る。その籠をミレディは初めてじっくり見たのだが、ある不思議なことに気がついた。
「あら? 同じ鍵がふたつ……?」
「ああこれ?」
 トレックは今自分が取ったのとは別の、そっくりな鍵を籠からつまみ上げた。青いタグのついた(にび)の鍵。ミレディから見るとそれらは同じものにしか見えなかった。
「これは、ノアが使ってたやつだよ。前に言ったっけ、昔はあいつと一緒にここ借りてたって」
「なるほど、その時のものなんですね」
「うん。片付けるのも面倒だし失くしそうだから、ずっとここに入れっぱなしにしてたなぁそういえば」
 トレックはふたつの鍵をぼんやり眺める。そして何か思いついたのか、おもむろにその片方をミレディに差し出して言った。
「あんた、これ使う?」
「えっ!?」
 急な提案にミレディの身体が跳ねた。
「でっ、でも、そ、それは……!」
 合鍵を貰うということは紅茶を一杯頂くのとはわけが違う。自分が自由にこの家を出入りするのを許されるということであり、ひいてはトレックのプライベートにいつ踏み込んでも構わないということだ。そんな重大なことを、トレックはまったく重みを感じさせない調子でのほほんと言う。ミレディにとっては嬉しくないわけがない話なのだが、当然喜ぶよりも前に戸惑いが先に立ってしまってミレディは両の手をわたわたと慌てさせた。
「いらなかったら別にいいんだけど」
「い、いえ! 滅相もございません!!」
 慌てて言葉遣いまでもが妙ちきりんな敬語になってしまったではないか。
「でも、本当にいいんですか……?」
 伺うようにトレックを見上げると、トレックはいつものように穏やかに笑って頷いた。
「いいよ、あんたなら」
 そしてミレディに合鍵を渡して何事もなかったかのように玄関のドアを開ける。冷たい外気が吹き込んできたが、鍵を受け取ったミレディの手はそんなもの気にもならないくらいにあたたかい。
「……ありがとう」
 ふわりとやわらかに微笑んで、ミレディは鍵を両手で抱きしめるように握った。百の言葉を尽くしてもまだ表し足りないくらいの信頼と情愛が、物言わずとも感じられる瞬間。
 ドアを開けたまま待っていたトレックは、ミレディが外に出たのを確認してからドアを閉め施錠した。
 外は晩秋とはいえ、ベルンでは冬と呼んでも良いほどの冷気だ。吐く息はほんのり白く、いつ雪が降ってきてもおかしくないような冷たい空。だがそんなひとりでは背を丸めて小走りになるような木枯らしも、愛すべき人と並んで歩けば肩を寄せ合う風に変わる。ふたり、手を繋いで――。

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