トレミレ小説 第6話『つまみ食い』

第5話の続きです。
季節は冬。

第6話『つまみ食い』 – The Taste of Whip Cream –

 秋は足早に過ぎ、いよいよイリアには本格的な冬将軍がやってきた。収穫を終えた農地は雪化粧をかぶり、しばしの間何も育たない我慢の時期が続く。動物や鳥の鳴き声が溢れていた山や森も、今では誰も住む者がないかのようにしんと静まり返っている。湖に張る薄氷も、じきに分厚い氷へと変わるだろう。
 深緑の針葉樹、白い雪、灰色の空。それがイリアの冬の色だ。
 けれどそんな静けさの中にも街が賑わう日がある。すなわち、祭りの日だ。
 年の瀬も目前に迫った今日は聖エリミーヌ生誕祭。人々が、聖エリミーヌならびにすべての生きとし生けるもののいのちを祝福する日である。
 
   *   *   *
 
「ふふふ、トレックは気に入ってくれるかしら」
 浅く雪の積もった道を歩くミレディの足取りは軽い。手には大事そうに四角い箱を抱えている。生誕祭を祝うためにベルンからはるばる持参したデコレーションケーキだった。
 本当は手作りのケーキでも作れたら、と女性として憧れはするものの、仕事一本で生きてきたミレディにとってそれは少々壁の高い作業である。だから行きつけの製菓店で特にお気に入りの、自信を持っておすすめできるものを買ってきたのだ。
 生誕祭といってもエリミーヌ教はエトルリア発祥の宗教であるから、ベルンやイリアではさほど熱心な教徒は多くはない。敬虔な教徒は一晩中教会で礼拝をし賛美歌を歌うそうだが、一般のベルン人やイリア人にとっては家族や愛しい者たちとやすらかな時を過ごす憩いの日である。ミレディにはここ二、三年はとてもではないがそんな余裕はなかったが、ベルンが落ち着いた今、久々に生誕祭を祝おうかという気になった。ともに祝いたい相手がいるからかもしれない。ともかく、今年は休みを取ってこうしてイリアへとやって来たのだった。
 くるぶしほどまで積もった雪を踏むたび、さく、さくと音がする。同じような音を立てて通りを多くの人が歩いていた。家族連れや若いカップル、大きな包みを持って家路を急ぐ男性たち。皆、寒い中でも幸せそうに笑っている。いつもは屹立とそびえている針葉樹も、この日ばかりはきらきらと魔法の光を灯してもらってまるでパーティードレスのよう。今日ばかりは空も祝福してくれているのか、雪もずいぶんと小降りになった。そんな中を歩けば自然とミレディの表情もほころぶというものだった。
 トレックの家に到着すると、コートに積もった雪を払ってからミレディはドアベルを鳴らした。合鍵を貰ったとはいえ、一応礼儀としていつもこうしてドアベルなりノックなりを鳴らしている。
 しかししばらく待ったが出てくる気配がない。もう一度鳴らしてみたが結果は同じだった。
「寝ているのかしら?」
 ミレディはようやく合鍵を取り出し、鍵穴に差した。
「お邪魔しまーす……」
 そっと中に入ると、居間から漏れてくる暖気に迎えられた。冷たくなっていた手肌が生き返る心地だ。
 静かにドアを閉め、居間へと向かってみる。そして、「トレック?」と言いかけてミレディは言葉を飲み込んだ。薪ストーブの向かいのソファーで、トレックは気持ちよさそうに寝息を立てていたからだ。
 ソファーの肘掛けに頭を乗せ、もう片側の肘掛けに足を乗せ、すやすやと眠っている。ドアベルにも気づかないくらいよく眠っているのね、とミレディは微笑ましく思った。いくら生誕祭とはいえ気持ちよく眠っている人を起こすのは忍びない。ミレディはトレックを起こさないようにそっとソファーの前の低いテーブルにケーキを置いた。
 そしてテーブルの上に散らばっている紙を片付けようとした時、ミレディはその紙を見て一瞬手を止めた。『イリア騎士団ゼロット隊直属第三警邏隊隊員名簿』『十二月予定表』『各員配備表』『新兵実演訓練計画』などなど、まるで普段自分がベルンで格闘しているような小難しい書類の山がそこにあったのだ。勝手に見てはいけないと思いつつもれたページが目に入る。紙面には自分の隊員ひとりひとりについて事細かにトレックの字で記されていた。生誕祭の日にまでこんなに仕事をしていたのか、と思わず胸が熱くなる。
 そう、傭兵騎士団とはいえトレックは小隊長職なのだ。上と下とを繋ぐ中間管理職がいかに人事管理に骨を折るかミレディはよく知っている。戦いが上手いだけではどうにもならない役職だ。それをトレックは普段愚痴ることもなくこうして黙々とこなしているのだと実感し、ミレディはトレックの寝顔を見つめて心中で「お疲れさま」と労をねぎらった。
 書類はそっと横に避け、ケーキをテーブルの上に開ける。生クリームや苺をはじめ、色々な果物で飾られたケーキが甘い香りと共に登場した。
「わぁ……!」
 声に出す代わりに表情で歓声を上げた。どう控えめに予想しても美味しいに違いないケーキはひどく魅力的なに見える。ベルンから休みなしで飛んできたミレディにとってはなおさらだ。本当ならトレックが起きるのを待つべきなのだろうが、ミレディの甘味欲がしきりに首を伸ばしている。しかしトレックはまだ起きそうにない。
「…………」
 お行儀が悪いけど、ちょっとだけならいいかしら。
 ミレディは、ちょっとだけ、ちょっとだけ……と言い訳にも似た自重を胸中で呟きながらケーキに指を伸ばした。指の先で、ケーキの端のクリームをすくいとってみる。そしてそれをそのまま口へと運んだ。……甘くて美味しい!
 思った通りの、いや予想以上の美味しさを噛み締めてを打つ。こうなってはケーキが温まってしまう前にトレックと一緒に食べたくなる。ミレディはソファへとそっと近寄った。
 ソファの側に膝をついて覗き込んでみると、トレックの寝顔がよく見えた。榛色の癖っ毛はあっちこっちに跳ねていて、瞼にはさほど長くはない同じ色の睫毛が並んでいる。わずかに開いた口元からは規則正しい呼吸音が聞こえる。こんなにじっくりとトレックを眺めるのは初めてかもしれない。こんなところにほくろがあるんだ、などと小さな発見を喜びながら、ミレディは穏やかに微笑む。あたたかい、とても幸福な気持ちになった。
 ねえ、あなたは今どんな夢を見ているのかしら。釣り糸を垂らしている? 馬に乗って駆けている? 私もそこにいるのかしら?
 慈母のように微笑んで、ミレディは夢の中のトレックに問う。愛おしさが胸いっぱいに広がる。
 そして、愛しいこの人に触れたい、と思った。
 俗な呼び方をすれば『恋人同士』なのだから何も遠慮することもないのだが、合鍵を貰った今でも手を繋ぐ程度の間柄。それで十分幸せなので別段それ以上どうこう思ったこともなかったけれど。こうしていると、溢れんばかりの愛しさが行先を求める。
 夢の中のあなたはどんな顔をするかしらね。驚く? 困る? 何やってんだ、って笑うかしら――
 ミレディはトレックの上にかがみ込む。そしてトレックの唇に、そっ、と口づけた。
 ほんの一瞬の出来事だったが、この上ない至福感がミレディを包む。もうキスくらいで動揺する歳でもないだろうに、心が光の羽根を生やしたようにの尾を引いて高く羽ばたいた。
 そしてやがて、胸中で「おやすみなさい」とトレックに話しかけてミレディはソファから離れた。
 すっかりあたたかな気分に満たされたミレディは、テーブルに戻ってケーキを切り分ける。自分のぶんは六分の一……いや、小さめのケーキだし四分の一。トレックはどれくらいかな、そう思って何となくソファーの方を振り返った。
 そして。
 ものすごくバツの悪い顔で半身を起こしているトレックと、目が合った。
 
   *   *   *
 
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「……ごめんなさい……」
 ミレディは泣きそうな声でよれよれと言った。
 ソファーには起き上がったトレック、テーブルの脇には正座をしてすっかり小さくなっているミレディ、間のテーブルの上にはデコレーションケーキという奇妙な図が出来上がっている。
 どこか斜めの方へ視線を彷徨(さまよ)わせるトレックの頬は微妙に赤いが、平謝りするミレディは耳まで真っ赤だ。
「いや……別に、謝るようなことじゃないけど」
 トレックは髪をがしがし掻いて歯切れ悪く答える。完全に受ける側だったので、どんな顔をしたら良いのか分からない度合いはってミレディよりも上かもしれない。
「ごめんなさい……」
 ミレディはうつむいたまま再び謝る。
「……いつから起きていたんですか」
 向ける顔もない、穴があったら入りたい。ついやってしまったこととはいえ、起きていると知っていたら
絶対にしなかったのに!
「ええと……何か紙ががさがさ言う音で目が覚めたと思う。多分、そのケーキを出した時」
「えっ、でも目は開けてなかった……」
「うん、おれ寝起き悪いからさぁ。頭が起きてもなかなか身体が動いてくれないんだ」
 猫背になって頭を抱えるようにトレックは答えた。それを聞いたミレディはがっくりとうなだれる。頭が起きて身体が動くまでのほんの短い間に当たってしまうとは……。もちろん、ばれなければいいなんてことはないので自分が悪いのだが、あまりに間が悪すぎた。
「はぁ……すみません……」
 もうしおしおと謝るより他にない。羞恥と自責の念
でミレディは何度目になるか分からない謝罪の言葉を垂れた。そんなミレディを見かねて、さすがにトレックも自らの戸惑いはとりあえず置いておいて救いの手を差し伸べる。
「もういいって。……さっきも言ったけど、別に謝る必要ないし」
 ようやくミレディの方に向き直って、トレックはミレディを落ち着かせるように言った。
「……本当ですか」
「うん」
「軽蔑していませんか」
「うん」
「怒ってないですか」
「うん」
 子どものような泣きそうな顔で上目遣いに訊いてくるミレディにトレックは苦笑した。寝ている相手にキスをするような大胆さとはかけ離れた奥手っぷりだ。トレックはソファーから立ち上がり、ミレディの前で腰を屈めた。正座同士で向かい合う格好で床に座る。
「……怒るわけない」
 安心させるように静かに言うと、ミレディはようや
く顔を上げた。至近距離で向かい合った視線がぶつかる。トレックの薄茶の瞳と、ミレディの紅玉の瞳。そして、これから起こる展開を本能的に察知した一瞬の緊張の後、トレックはそっとミレディに口づけた。
 ひとたび唇が触れると、の緊張は驚きでも照れでもなくのような熱へと変わる。一旦離れて互いの瞳の奥を確認してから、ふたりは再び唇を重ねた。今度は、深く、溶け合うように。
 ミレディがトレックという存在そのものを求めるように彼の背に手を回し、トレックがそれに応じる。情熱と吐息だけが交差する久遠の時。やがて唇を離すと、今度は熱が幸福感へと姿を変えて胸に満ちた。
 ミレディはトレックの首元に頬を預け、トレックはミレディの肩に顎を置いて互いにぎゅっと抱き締める。あたたかな体温が腕の中いっぱいに伝わってきて、どちらからともなく顔を(ほころ)ばせた。
「……生クリームの味」
 トレックがはははと笑う。
「え、嘘っ!?」
 慌てたミレディの顔が赤くなる。
「本当。つまみ食いしたかい?」
「そのぅ……ちょっとだけ」
 恥ずかしそうにミレディが言うと、トレックはミレディを抱き締めたままくっくっと肩を震わせて笑った。
「あ、あまりに美味しそうだったからつい味見したくなったんです!」
「うん、いいんじゃないかな」
 こっそりケーキをつまみ食いする竜騎士団隊長など微笑ましいではないか。トレックが幸せそうに笑っていると、「笑わないでください!」とミレディに怒られた。
「ははは。じゃあおれもそのケーキ貰おうかな」
「そうですよ、あなたが起きるのを待っていたんですから」
「寝ててごめん、お詫びに紅茶れるよ。昨日いい茶葉が手に入ったんだ」
「まあ! それは楽しみです。あなたの淹れるお茶はすごく美味しいものね」
 そうして、ようやくトレックとミレディの聖エリミーヌ生誕祭は始まった。ミレディがケーキを切り分け、トレックが茶を淹れる。かぐわしい茶葉の香りが部屋に広がった。
 ダイニングテーブルに向い合って座り、白い湯気の立つティーカップを持ち上げた。いつもなら「いただきます」という言葉も今日だけは生誕祭専用の決まり文句となる。
 まるで格好良く決まらなかったふたりの最初のキスだったけれど、これはこれで自分たちらしいじゃないかとのちの笑い話となるのだった。
 
「「あなたに聖エリミーヌのご加護がありますように」」

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