トレミレ小説 第7話『イーリアン・ブルー』

第6話からの続きです。
『イーリアン・ブルー』はこのトレミレシリーズのタイトルでもあります。

第7話『イーリアン・ブルー』 - Ilian Blue –

 季節は巡り、せわしない一年が瞬く間に過ぎていった。年が明け、厚い雪氷が溶け、緑の夏が過ぎ、実りの秋を迎え、そしてまた聖エリミーヌ生誕祭を祝い、再び新たな年が明ける。
 ミレディがギネヴィアに呼ばれたのはちょうどそんな新年の初出勤の日だった。
「陛下、私にお話があるとのことでしたが?」
 いつもであればギネヴィアは何か用があっても、ミレディの仕事の報告等の際についでに話す。だが今日は折り入って話があると、特別に呼ばれたのだ。何か重大な用件に違いない、とミレディは気を引き締めて心構えをする。
「ええ。それはもう、大事な話よ。あなたにとっても、ベルンにとってもね」
 ギネヴィアは年々美しくなる艷やかな微笑みを浮かべた。この表情から察するに、どうやら暗い話ではないらしい。それにしても、自分にもベルンにも重要な話とはいったい何だろうか。
「私にも、ベルンにも大事な話……とは?」
 ミレディが問うとギネヴィアは身を乗り出して、最高の秘密を耳打ちするかのようにミレディに打ち明けた。
「ついに……ついに、イリアがひとつの国になるのです!」
「ええっ!?」
 ミレディは驚愕の余り目を丸くした。
「イリアはこの春よりイリア連合王国として、これまでのイリア諸騎士団がまとまった統一国家になることが正式に決定しました。動乱から約三年……今までずっと国としての(いしずえ)作りに心血を注いでおられたゼロットどのの努力が、ようやく実を結んだのですよ」
「イリアが……!」
 ギネヴィアがまるで自分のことのように心底嬉しそうに話すと、ミレディも無意識のうちに顔をほころばせていた。
 これまでは各傭兵騎士団が独自に自治をし行動する、ゆるやかな連合だったイリア。しかし騎士団同士のいや非協力が絶えることはなく、結果、動乱の時には簡単に外国につけ入れられてしまった。また、国として豊かにしようとしてこなかったぶん大規模な農地改革や治水も行われてこなかったため、いまだに冬場の食糧不足や夏の渇水にあえぐ年もあり、傭兵稼業で血を流さねば生きていけない現状もある。
 そこでエデッサの領主であり騎士団隊長であったゼロットはこのままではいけないと、動乱後地道に諸騎士団に統一を呼びかけ続けた。すべてはイリアの発展とイリアの人々のため、自分たちの子孫のために、と声を枯らして。ゼロットに賛同する者は少しずつ数を増やしたが、改革には反対勢力がつきものである。あと一歩のところで一年以上の我慢比べの交渉が続いていた。それが今、ようやく建国にこぎつけたのだ。これが歓喜せずにいられようか。
「喜ばしいことです、ゼロットどのもずいぶんと長い間イリア代表代行でおられましたがついに国王になられるんですね」
「ええ、春には建国式と国王就任式を行うとのことですよ。初代国王として今頃式典の衣装合わせなどなさっているかもしれませんね」
 ギネヴィアは心底嬉しそうに笑った。
「しかし陛下、イリアがじきに国になるというのは聞いておりましたが、正式な建国はまだ一般には知らされていませんが? なぜ私に?」
 ベルン王宮に深く関わっているミレディですら初耳の話なので相当秘密裏にされてきたのだろう。もしかするとゼロットの直属の部下であるトレックあたりは何らかの事情を知っていたかもしれないが、彼からそのような話を聞かされたことはない。なのになぜギネヴィアは自分に前もって知らせてくれたのだろう。
「ふふ、そこがあなたにとって重要な話なのですよ、ミレディ」
 ギネヴィアが意味深に微笑むものだからミレディはごくりと唾を飲んだ。
「実は、イリア連合王国の建国に合わせて、ベルンはイリアにベルン大使館を置くこととなったのです」
「ベルン……大使館?」
「そう。両国の親愛と豊かな国交を願うあかしとして、互いに大使館を置き、親善大使を派遣することになりました。そこでミレディ、あなたにベルン大使としてイリアへ赴いてほしいのです」
「え……えええええっ!?」
 突然の辞令にミレディはのけぞった。頭の中は真っ白になり、腰は抜ける寸前。ベルン大使として、イリアに赴任……あまりに予想外で頭がぐるぐる回る。
「し、しかし私はベルン竜騎士団の隊長ですし」
「ツァイスが立派に育ってくれています、彼ももう十分隊長としてやっていけるでしょう」
「しかし私は陛下のお付きでもありますし」
「エレンが優秀な部下を育ててくれていますから心配には及びません」
「しかし……」
 こうもすっぱり言われてはもう太刀打ちできる台詞はない。この辞令はきっとありがたいものなのだろうが、自分はもう自分は竜騎士団にもギネヴィアの側近にも必要ないのだろうか? ベルンを出て行けと言われているような気がして、背筋が冷たくなる。
「そんな顔しないで、ミレディ」
 泣きそうな顔でしょぼくれてしまったミレディに苦笑してギネヴィアは言葉を足す。
「勘違いしないでちょうだい、これは決して左遷などではありません。私は誰よりもあなたの働きを知っていますし感謝しています。本当ならずっとずっと側にいてほしいくらい」
「陛下……」
「でもね、今回の人事は本当に大事なことなのです。初代ベルン大使……これは新生イリアにベルンを印象づける、最初にして最大の役職です。もしこれがろくに名も通っていないいち役人だったら? ベルンはイリアにこの程度の人間しか寄越さないのかと思われても仕方ないでしょうね。でもあなたは違う」
 ギネヴィアは言葉を切って真剣な眼差しでミレディを見つめた。
「これまであなたは本当によくやってくれました。あなたの働きは諸外国にも伝わっていることでしょう、自信を持って外国に派遣することができます。さらにこの二年間、イリア方面の業務はすべてあなたにお願いしてきました。イリアであなたを知る人はもはや少なくはないでしょう? イリアとベルンの橋渡しをしてきた人物としてあなたに信頼を置く人も多いはず。……そうして諸々をみた結果、何度考えてもやはりあなたが誰よりも適任だという結論に至ってしまうのです」
 ごめんなさい、と言いたそうに気遣わしげな顔でギネヴィアは言った。呆然としていたミレディもギネヴィアの言葉をひとつひとつ飲み込み、徐々に冷静になる。
「…………」
 確かに自分で考えてみても、ベルンのどの要人よりも自分が一番親イリアな役人だと思う。自分以外の適任者など思いつきもしない。それは頭では分かるのだが、これまでずっと愛すべきベルンでギネヴィアのために尽力してきたミレディにとっては、いくら名誉の赴任であってもすんなりああそうですかと受け入れられるものではなかった。
「もちろん、すぐにというわけではありませんよ。春、イリアでの式典が終わってから大使館の着工が始まります。赴任するのはそれからです」
「はい……」
 ミレディはなおも生返事で頷く。ギネヴィアとて罪悪感がないわけではない。今まで何年間も、動乱で国に反旗をそうとも自分に付き従ってくれた大切な臣下である、この辞令が酷であることは分かっていた。しかしギネヴィアにはベルンを守るという義務がある。いくら手放したくない臣下であっても、私情など挟むことはできない。
 だが、非情の女王にもなれないのがギネヴィアであった。
「……どうしても嫌なら、無理にとは言わないわ。よく考えて、また答えを頂戴」
 なだめるように、優しく言った。
「……はい。少し、考えさせてください」
 いつもきびきびとした返答をするミレディらしからぬ頼りない声音でミレディは答えた。
 ベルン大使としてイリアへ赴任――それはイリア連合王国の建国よりも衝撃的な案件だった。
 
 
 その日の業務を終えて自室へ戻り、ベッドに仰向けになってぼんやり天井を眺めていると、いくぶん心は落ち着いてきた。
 話を聞いた時は気持ちが動転してしまってただただ途方に暮れてしまったが、こうしていると昼間よりはいくらかましな思考ができる。
「イリア、か……」
 竜騎士団のことはツァイスに任せれば心配ないだろう。むしろ、彼にとっては隊長に就任するのにうってつけの時期だとも思う。ただ今までずっと尽くしてきたギネヴィアのもとを離れるのはやはり抵抗があった。ギネヴィアに仕えることが己の使命であり生きがいだったのだから。
「でも……ベルン大使は私だけの使命なのよね……」
 他の誰にも代替がきかない、ツァイスやエレンですら任せられない役目。それだけギネヴィアが自分を信頼し、期待をしてくれているのも分かっている。つまりは、自分がギネヴィアのもとを離れたくないという我儘、そして新天地でやっていけるのかという不安なのだ。
「あの人ならどうするかしら……」
 ふとトレックのことを思い描く。彼ならどうするだろうか。雇われだから、と素直に従うだろうか。
 手紙を書いてみようかという考えが一瞬頭をよぎった。しかしすぐにミレディは首を振ってその考えを打ち消す。
「いいえ、駄目よ。これは私が自分で考え、自分で決めなければならないこと」
 自分の歩む道は自分で決めるものだ、とミレディは己を叱咤するように天井をキッと睨む。白い天井は何も答えてはくれない無情さでミレディを悠然と見下ろす。
 イリアへ行くとはどういうことか。
 まず、住み慣れたベルンを離れイリアに住むことになる。この点については今までイリアの街中をさんざん歩いてきたからどうにかなりそうだ。それにトレックといつでも会えるようになる。これは非常に喜ばしいことだ。
 ベルン大使という新たな仕事はどうだろうか。大使館というのは派遣先の国での外交拠点となる場所だ。また、イリア・ベルン間における人々の移動の管理、通行証の発券、イリアでのベルン人の保護、さらに二国間の文化交流や情報収集を担う。ミレディの片腕として役人仕事をこなしてきた経験があるとはいえ、竜にまたがって槍を振るうのとはかけ離れた世界だ。自分に上手くやれるのだろうか。
 ……いや。これは職場が変わる際に誰しもが抱く不安だろう、そして打ち勝たねばならないものだ。かつて自分がギネヴィアに初めて仕官した時もそうだったではないか。恐れていては前へなど進めない。転機は勝機とするべきだ。
「……決めた」
 しばし天井とにらめっこをしたのち、ミレディは勢い良く起き上がった。
 そして翌日、朝一番でギネヴィアのもとに参内し、昨日とは違う凛とした表情で、
「ベルン大使、んでお受けさせていただきます」
 そう言い切ったのだった。
 
   *   *   *
 
 冬の間に仕事の引継ぎを済ませ、ミレディはベルン大使に、ツァイスは新隊長に正式に任命された。
 そして春。イリアでは各国要人を招いての建国式ならびに国王就任式が厳粛に執り行われた。
「……以上をもって、ここにイリア連合王国の建国を宣言する」
 イリアらしい質実剛健な石造りのホールの壇上でゼロットが声高に宣誓すると、会場じゅうからわっと拍手が沸き起こった。席にはリキアのロイ、エトルリアのセシリア、サカのダヤンといった各地の大物が顔を揃えており、その中にギネヴィアの姿もあった。ミレディも正装して参加しているのだが、もう定位置であったギネヴィアの後ろではない。今日からはベルン大使として列席するのだ。
 いささか緊張しながら式を見守っていると、ゼロットの宣誓の後には初老の司祭の進行が続いた。エリミーヌ教イリア支部の高司祭だそうで、ヨーデルを彷彿とさせる優しげな立ち振る舞いだ。
「では、これよりゼロット代表代行のイリア国王就任式に移ります」
 ゆったりとそう言って、司祭はゼロットの略歴を紹介した。もちろんその中には動乱の際の功績も含まれている。そして今日のために作られたのであろう冠を持ち上げるとゼロットの前まで歩み寄り、「イリアをよろしくお願いいたします」と言ってそれをゼロットの頭に載せた。
 いて冠を戴いたゼロットは式典用の緋色のマントを翻して立ち上がり、堂々と皆の前に進み出る。来賓や国の者たちひとりひとりの顔を順番にじっと見渡してから、かに口を開いた。
「私は今こうして、きらびやかな王冠とマントを身に付けている……しかしこれは単なる飾りにすぎない。そのようなものがなくても、王は王たらねばならない。王として、国のため、民のためを思い、決してることなく、この身ひとつでもイリアのために尽くすことを、ここに誓う」
 朗々とした挨拶を受けて再び拍手が沸き起こった。形などに囚われない、実にゼロットらしい一本気な挨拶だとミレディは思った。
 そしてゼロットは国の指針や他国との協調路線など一連の今後の見通しを話した後、少し声のトーンを落として続けた。
「では続いて、王妃を紹介する。ユーノ!」
 呼ばれて裾から現れたのは、白のシンプルなマーメイドドレスに身を包んだユーノであった。菫色のふわふわした髪が白のドレスに映えて、もともと美しいのに今日はその何倍も可憐に見えた。
「ゼロットの妻ユーノでございます。どうぞ新生イリアをよろしくお願いいたします」
 出しゃばり過ぎない控えめな口調でユーノは深々と頭を下げた。そのたおやかなしぐさに会場からは溜息すら漏れる。
 ゼロットは司祭に目配せで合図をすると、司祭は花のようなものを乗せた銀のトレイを持ってきてゼロットに差し出した。それは雲ひとつない空のような綺麗な青い色で、こぢんまりとした可憐な花がいくつも輪になって連なっている花冠だった。
「これは《イーリアン・ブルー》といって、イリアの青という意味の花です。春を告げる花としてイリアでは古来より親しまれており、イリアの服装に青が多いのもこの花のためと言われています」
 司祭が穏やかに花の説明をすると、諸外国の来賓たちは興味深そうに頷いた。《イーリアン・ブルー》――ミレディも初めて耳にする花だったので興味深そうにトレイの上の花冠を見つめている。
「花言葉は『あなたとともに生きる』。かつてイリアでは男性が女性に求婚する際、この花を贈るのが習慣でした。今ではもうほとんど見られない習慣ですが、このたびゼロット新国王が新王妃の冠にと自らこの花をお選びになったのです」
 司祭の説明を受けてゼロットは照れくさそうに大げさに咳払いをし、花冠を手に取るとユーノの頭にそっとそれを載せた。
「これからも苦労をかけると思うが、よろしく頼む」
「はい、あなた」
 ほほえましい光景に、三度目の拍手喝采が起こった。王妃への冠にこのような花を選ぶなど、愛妻家のゼロットならではの選択だろう。イーリアン・ブルーの花冠を戴いたユーノは本当に綺麗で、ミレディも思わず一生懸命に拍手を送った。そしてこの後、イーリアン・ブルーの髪飾りをつけた幼い娘を紹介する際にゼロットの表情がさらに緩んでいたことは言うまでもない。
 こうしてイリアは初代国王にゼロットを据えてイリア連合王国となった。
 リキアでもフェレのロイ、オスティアのリリーナを中心に統一国家への動きが高まっているという。もしそれが実現すれば、二度と大陸に火種が起きないように各国間で平和協定が結ばれる見通しだ。そうなれば今以上に各国の交流が盛んになり、ベルン大使というミレディの役目も重要になってくる。新しい国と新しい職を歩む、責任は重いがそんなまたとない重要な機会を与えられたことを、ミレディはあらためてギネヴィアに感謝し気を引き締めたのだった。
 
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 式典後日、春の訪れとともに暖かくなった河原でミレディはトレックとのんびり釣り糸を垂らしていた。ここのところツァイスへの引継ぎやベルン大使としての勉強でてんやわんやだったので、これほどゆっくり休日を過ごせるのは久しぶりである。チュピピピ、と可愛らしい声でさえずる小鳥たちの歌を音楽にしてゆるやかな時間が流れてゆく。
「ふわぁあ、いい天気だねぇ」
 大あくびをしながらトレックは言った。つられてミレディも口元に手をやってあくびをする。
「ふあぁ、そうね。イリアが国になってもこの辺りは何も変わらないわね」
「うん。騎士団だろうと国だろうと、川や空や森には関係ないからなぁ」
「ふふふ、魚にもね。あぁ、また餌持って行かれちゃった」
 本気で釣るつもりではないので簡単に魚に餌を取られてしまう。餌も赤虫などの生き餌ではなく単に小麦粉を水で練ったものなので、さほどの獲物は期待していない。今日はのんびり過ごせればそれで良いのだ。
「トレックは、イリアが国になることを知っていたの?」
 ミレディが問うと、トレックは少し「うーん」と首を捻ってから答えた。
「はっきりと、じゃないけど。そういう動きがいよいよ間近だっていう雰囲気はあったかなぁ。ええと、去年の秋くらいから」
「そうだったの。本当に良かったわよね、ゼロットどのの努力が報われて」
「うん。将軍もユーノさんも、苦労してたからなぁ」
「ユーノさんも?」
「将軍は動乱の後、他の騎士団の説得だけじゃなくて、国を支える資金集めにいつも出てばっかりだったから。家に帰れる日はほとんどなかったって聞いたよ」
「そう……小さい娘さんもいらっしゃるのに、大変だったでしょうね……」
 ミレディは式典の際のゼロット親子を思い出す。あの笑顔はそういった苦労を経てきたからこそのものだったのだ。
「……ふふっ」
「? どうかしたかい?」
「ううん、就任式のゼロットどのを思い出していたの。娘さんを紹介する時のお顔があまりに緩んでらしたのが微笑ましくって」
「ああ、そうか、あんたも式典に出てたんだっけ。おれは外の警備だったから見てないんだよなぁ、想像はつくけど」
 娘にデレデレしているゼロットを何度か見かけたことのあるトレックはたやすく目に浮かぶ光景に苦笑した。新王としての威厳も保たねばならないだろうから自制はしただろうが、きっと駄々漏れだったに違いない。
「それにしても、あんたがベルン大使になってこっちに来ることになるなんてなぁ。人生分からないもんだね」
 釣り糸を巻き取りながらトレックは言った。こちらにもやはり獲物はかかっていない。
「そうね……」
 ミレディは複雑そうな笑みを浮かべる。普通に考えれば大使への大などもっとを挙げて喜ぶような光栄なのだろうが、彼女のギネヴィアへの忠誠心を知っているトレックにはその表情もさもありなんと思える。練り餌を付けてえいっと糸を水面に落としながらトレックは淡々と穏やかに言った。
「……いつでも帰れるよ。今までだってしょっちゅう行き来してきたじゃないか、トリフィンヌに乗って」
 至極もっともな、されど自分では考えつくことができなかったその言葉はミレディの胸を打った。ミレディは目を見開き、やがてふっと微笑んだ。
「そう……よね。ベルンに二度と戻れないわけじゃないものね。行こうと思えばいつだって行ける」
「うん」
「……ありがとう。あなたはいつもそうやって簡単に私を救ってくれるわ。動乱の時も、再会した時も」
「そうかな」
「そうよ」
 ミレディはころころと笑った。何でもないように話す彼の言葉はいつも心にあたたかい。ミレディはようやく、ベルンに後ろ髪を引かれる思いを断ち切ることができた心地がした。
「ふふ、こっちにいればいつでもあなたに会えるわね」
 晴れやかな気持ちで何気なくそう言うと、トレックも何気なく、
「うん。嬉しいなぁ」
 と返してきた。その言葉が直球すぎて、自分から話を振ったくせにミレディの鼓動は途端に跳ね上がる。本当にもうどうしてこの人はこう簡単に人の心を左右させてしまえるのだろう。
「私も嬉しい」
 トレックにつられてミレディの言葉も素直になる。嬉しいことを素直に嬉しいと言うことがなかなかに悪くないものだと教わったのもトレックからだ。ミレディは幸せそうにはにかむ。ああ、ぽかぽか陽気が心地良い。
「住むところ、決まったら教えてくれるかい?」
「ええ、もちろん。でもなかなか決まらなくて」
「へぇ、そりゃまたなんで?」
 問われてミレディはうーんと首を傾げた。
「大使館に近い場所が良いのだけど、トリフィンヌのことがあるから竜舎に近いところを借りたほうがいいかなって。でもあの辺りって一軒家や広い物件が多くて、あまり一人暮らしに適した物件がなかったのよ。ほら、家賃もばかにならないし」
 使わないのに広すぎると掃除が大変だし、と小声で付け加えてミレディは答えた。ここ一ヶ月、何度か物件を探しに歩いてはみたのだが、トレック宅がそうであるようにこの辺りは複数の部屋がある賃貸物件や一戸建てが多く、どちらかというと掃除が得意でないミレディはいまだに転居先を決めかねていたのだ。今日もこの後また物件探しに出向いてみようと思っている。
 するとトレックは「ふーん」と相槌を打ってさらりと言った。
「じゃあうち来る?」
「へ?」
 うち来る、の意味を理解しかねてミレディは思わず間抜けな声で聞き返した。
「うち、ノアが使ってたとこがまるごと空いてるし。竜舎にも大使館にもそこそこ近いから、あんたが構わなければ使っていいよ」
 そう言った声音は「明日晴れるかなあ」と言うそれとまったく同じで。完璧に理解するのにたっぷり三秒かかってから、ミレディはれたトマトのように頬を紅潮させた。
「そっ、それは、そのっ、」
 トレックの声の調子と台詞の内容があまりにちぐはぐでミレディの頭は絶賛混乱中である。
「どどど同棲ってことでしょうか!?」
 久々に丁寧語が飛び出してしまう程度には取り乱してミレディは訊き返した。
「あぁ、そう呼ばれることもあるのかぁ。ええと、ルームシェアってやつ」
 トレックはそう言うものの、呼び名が変わっただけでそれは立派な共同生活である。男女がひとつ屋根の下で共に住まう以上、同棲と呼ばれるものと何ら違いはないではないか。トレックと毎日寝食を共にするなど想像しただけで楽しいに違いないし、そう言ってくれるのが嬉しくて舞い上がりそうになったのは否めない。つい二つ返事で「ぜひ!」と言ってしまいそうになるのをすんでのところで抑え、ミレディはぎりぎり踏みとどまった。
「お、お気持ちは大変ありがたいです! でも、ベルン大使という役職を考えるとそれはさすがにまずいんじゃないかしら……? ほら、そういうの気にする人ってけっこういるでしょう。未婚の男女がはしたない、とか」
 ベルン大使として就任した途端に不利益なスキャンダルを流されるのも困りものである。ベルンでは若者たちの中には婚前でも同居を始める男女も増えてきたが、それでも年配の人々には白い目で見られる傾向にある。イリアではそのあたりの価値観がどうなのか分からないが、軽はずみなことは役人の命取りになってしまう。これまでつまらないスキャンダルで失脚してきた役人を何人も見てきたミレディだからこそ、慎重にならざるを得なかった。
 するとトレックは「ああ、それもそうかー」と納得したように頷いて、いつもの調子で言った。
「だったら結婚しようか」
「そうね、結婚してれば別に問題ない……って、えええええ!?」
 仰天のあまりミレディは釣竿を取り落とした。機械のようなぎこちない動きでトレックのほうへゆっくりと顔を向ける。と同時に、沸騰し始めた水のように頭のてっぺんから足の先まで真っ赤な熱が沸き起こった。
 今、彼は何と言った? 同棲どころの騒ぎではない。頭の中が真っ白になってミレディは干された金魚のように口をぱくぱくさせた。
「けっ……」
 こん。語尾まで言葉が継げないほど言葉も呼吸もまともに出てこず、心臓が苦しいばかり。二度、三度と深呼吸を繰り返しやっとのことでミレディは文章を喋るのに成功した。
「トレック。それって、プ、プロポーズなのかしら……??」
「あ」
 ミレディに言われてトレックはようやくことの重大さを悟った。
 トレックにしてみれば、結婚というのはさして特別な儀式ではない。それは結婚などどうでもいいという意味ではなく、付き合いの延長線上にあるものと考えているからだ。付き合って、この人とこれからもずっと一緒に在りたいと思う。じゃあ一緒にいるために結婚しようか、というごく自然な流れの一環と感じていた。ただ恋人とか夫婦とか呼称が変わるだけの話で。
 だからミレディとの結婚はもうずいぶん前から――少なくとも合鍵を渡した時にはすでに、頭のどこかにあったことで、決して今思いつきで言ったわけではない。ただぼんやりと常日頃から考えていたことだったのでつい口から滑り出てしまったのだ。
「えーと……」
 そして一般的にはプロポーズというものは、特に女性にはただならぬ一大事だということも知っている。そう意識するとさすがのトレックも思いがけず始まってしまったプロポーズにかきまりが悪そうにぽりぽりと頬を掻いた。
 初めてミレディとキスを交わした時もぐだぐだの展開だったものだが、まさかプロポーズもこんな締りのない幕開けになろうとは。結婚指輪など用意してあるはずもないし、どうしたものだろうか。結婚の意志は間違いではないから前言撤回するのもおかしいし……。どうやら自分は格好の良い展開とはからっきし縁がないらしい。
 トレックは釣竿を置くと、立ち上がって周囲をぐるりと見渡した。
「確かこっちのほうに……」
 うろ覚えの記憶をたどってちょっとした林に分け入り、トレックはちょいちょいとミレディを手招きした。何だろうと思ってミレディが後を追うと、まばらに生えた松林の向こうで急に視界が開けた。
「わぁ……!!」
 そこに現れたのは、春風にさざめく一面の青、青、青!
 真っ青な絨毯と見まごうほどに、群青の花が畑いっぱいに揺れていた。
 思わずミレディは駆け寄って花に顔を寄せる。近くで見るとそれは硬貨より少し大きい程度の小ぶりな花で、鮮やかな瑠璃色の花びらを六枚持ち、中心に黄色い(ずい)を持っていることが分かった。決して百合や蘭のような優雅さはないけれども、素朴でかわいらしい青い花。そんな花々が何百、何千と咲き誇っている。
「トレック、これは?」
 上気した顔でミレディは後ろを振り返って尋ねた。トレックはゆっくり花畑に歩み寄って答える。
「休耕田だよ。イリアでは使ってない時期の小麦畑にこうやって花を植えるんだ。これが次の肥料にもなる」
「へぇ……! ベルンで言うれんげみたいなものかしら?」
「うん、そんな感じ」
 感激したミレディはさらに目を皿にして花を見つめた。
 そしてふいにあることに思い当たった。この花の色はどこかで見たことがある。そう、あれはゼロットの就任式の時。あの時は遠目だったから細部までは見えなかったけれど、確かにあの花はこんな青色をしていた――
 ミレディがそれを尋ねようとしたが、その前にトレックはあぜ道にしゃがみ込んだ。何だろうと思ってミレディが眺めていると、トレックは青い花を一輪って何やらちまちまと指先で細工をし始めたではないか。
「あの、トレック……?」
「ん、ちょっと待って」
 真剣な顔で花の一点を見つめ、指先をわずかに動かしている。トレックの手先が意外なほどに器用なのはミレディも知るところで、以前木彫りの彫刻を見せてもらった際などつい持ち帰らせてほしいとせがんだほどだ。だから何ができるのだろうか、とミレディはトレックの邪魔をしないようじっと見守った。
 そして一分も経たないうちにトレックは「できた」と満足気に笑った。
「なあに?」
 ミレディがトレックの隣にしゃがんで興味深そうに覗き込むと、トレックはミレディに向かって言った。
「ミレディ。手、出して」
「手? はい」
「ええと、そっちじゃなくて」
「えっ、左手?」
 何の気なしに出したミレディの左手を、トレックはそっと支えるように掴んだ。そしてその薬指に、今作ったばかりの花飾り――青い花の指輪を、すっと通した。
 驚いて瞬きを繰り返すミレディから自然に呟きがこぼれる。
「イーリアン・ブルー……」
 
   「これは《イーリアン・ブルー》といって、イ
   リアの青という意味の花です。春を告げる花と
   してイリアでは古来より親しまれており、イリ
   アの服装に青が多いのもこの花のためと言われ
   ています」
   「花言葉は『あなたとともに生きる』。かつてイ
   リアでは男性が女性に求婚する際、この花を贈
   るのが習慣でした。今ではもうほとんど見られ
   ない習慣ですが、このたびゼロット新国王が新
   王妃の冠にと自らこの花をお選びになったので
   す」
 
 式典の際の司祭の説明が鮮やかに蘇る。そう、間違いない、この花はイーリアン・ブルー……!
「あれ、知ってたんだ、この花」
「え、ええ。近くで見たのは初めてだけど」
「じゃあ説明するまでもないか」
 穏やかに笑ってトレックはミレディをまっすぐに見つめた。そして続く言葉はあらためて仕切り直すプロポーズ。
「おれと、結婚してください」
 春風が吹いた。
 トレックの静かな声を乗せ、イーリアン・ブルーの花びらを連れて空へと舞い上がる。目の前には木漏れ日のようなやわらかな笑顔でゆっくりと頷いた人生の伴侶が。
「……はい。よろこんで」
 壮麗なチャーチではなく、畑のあぜ道。
 白金の指輪ではなく、青い花の小さな輪。
 そんな取るに足らない情景が、何よりもいとおしく、幸せに思える。ミレディは左手を高々と太陽に向かって掲げた。
「素敵な指輪」
 このイーリアン・ブルーの指輪は、世界中のどんな貴重な宝石でどんな熟練の職人がこしらえた指輪よりも素晴らしい。ミレディはまばゆく輝くダイヤモンドでも見るかのように目を細めた。
「ずっと大事にするわ」
 感慨深げに言ったミレディの言葉に続くのは、いつも通り気取らないトレックの台詞。
「枯れるよ?」
「いいの。押し花にしておくから」
「あぁ、なるほど」
 そんなゆるりとした優しい時間が、ふたりの間でこれからもずっと続いてゆく。
 
 
 同じ道を同じ速度で歩いてゆこう。
 時には立ち止まって道端の花を()で草笛を吹こう。
 時には空を仰いでくじらの形をした雲を追いかけよう。
 時には寄り道をしてあたたかいシチューの材料を買おう。
 たくさん笑って、たまに怒ったり泣いたりすることもあるかもしれないけれど、夜が明けたらまた笑っていよう。
 そしていつか歳をとって皺くちゃの爺さん婆さんになっても、美味しいお茶を淹れて楽しい時間を一緒に過ごそう。
 そんな、ささやかだけどかけがえのない幸せの物語を……いでゆこう。

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