ヒュウレイ小説 第2話『旅は道連れ』前編

第1話の続きです。ヒュウとレイのふたり旅。
傾向:BL未満ですがややブロマンス風


第2話 旅は道連れ 前編

「このキノコはなぁ焼くとウマイんだぜ。よく似たやつでハカマがついてるのは有毒の別もんだからな、気をつけろよ。ああ、笠の裏に虫がいるかもしれねえからよく洗うんだぞ」
「河原の野宿は便利だけどな、場所取りに注意しろよ。虫一匹いねえ、ペンペン草も生えてねえようなところは水に飲まれる危ねえ場所ってことだからな」
「おい、ありゃぼったくりの行商人だぜ。時々いるんだよああいうのが。とんでもねえ値段ふっかけてくるから目ぇ合わせんなよ」

 

 エトルリアに向かう道中、ヒュウはさまざまな話をレイに語って聞かせた。
 レイははじめお喋り男のくだらない長広舌(ちょうこうぜつ)かと思って聞き流そうとしていたのだが、それらが旅に役立つ細かな知識をふんだんに含んでいることに気づくまでさして時間はかからなかった。
 他人を斜めに見がちなレイにしては珍しくヒュウの話をふんふんと素直に聞き、その甲斐あってオスティアを出る頃にはレイも野営の支度などの要領を得てヒュウを手伝えるほどになっていた。
 ずいぶん遠くまで来た、とレイは粗朶を燃やす手を止めてふと思う。
 焚き火から立ち上るこの煙をてっぺんまで追いかけていったってもう孤児院は見えないだろう。世界は想像していたよりもはるかに広いらしい。
 そして旅立った当初は行き倒れの憂き目すら見た自分が、今それなりに旅人をやれていることに少しばかりの喜びを覚える。偶然出会ったヒュウの手助けによるところが大きいとはいえ、自分はついに闇魔道士としての道を歩み始めたのだ。
 その大きな一歩が昨日ミィルの書を行使できるようになったことだった。レイの闇魔道の素質を見抜いたヒュウの眼に偽りはなかったようで、書を読破するやいなやレイはすぐにミィルを操って獣を仕留めてみせたのだ。
「はあぁ〜、まったくよう、あんなに簡単にやってのけられると素質の差ってのをひしひしと感じるぜ」
 水汲みから戻ってきたヒュウは鍋に川の水を移しながら大げさにため息を落とした。
「なんであんたががっかりする必要があるんだよ、あんた理魔道士だろ」
 レイが焚き火から顔を上げるとヒュウは「大ありだぜ」と肩をすくめた。
「前に言ったよな、おれのばあちゃんは闇魔女なんだ。山の隠者なんて呼ばれてる大ばば様よ。当然おれもガキの頃から闇魔道の訓練をさせられてたわけよ。ところが、だ。おれはミィルの書なんか何回見たってちんぷんかんぷんで、どうにもこうにも扱えねえときた。あの時はばあちゃんに相当どやされたもんだぜ。でもよ、今こうしてお前見てると、あれはこれっぱかしも才能がなかったってことなんだなァと思うんだ」
 言いながら「よっこらせ」とヒュウは年寄りくさい所作で鍋を火にかけた。
「へえ、素質がないと書すらも読めないもんなのか」
「からっきしだとそうらしいぜ、内容すら理解できねえ。仮に少々素質があっても、闇魔道ってのは書の力に負けりゃ闇に食われて頭が狂っちまうって言うから、お前にゃきっとミィル程度は朝飯前の素質があるんだろうよ」
「ふうん……素質ね……」
 レイは我が手のひらを夜空に向かってかかげた。
 昨日初めてミィルで獲物を撃ったとき、闇のかたまりはあやまたず獲物に命中し一発で失神させた。レイに何らかのダメージが返ってくることもなかった。こうしてこの手を見上げていると、早くまた存分にミィルを使ってみたい、と指先がうずうず待ちくたびれているような心地さえする。
 もう為すすべなく物乞いに立つ子供ではないのだ、とレイは己の中にむくむく自信が湧いてくるのを感じた。
「……レイ、どうかしたのか? そろそろだぜ」
「えっ? 何が?」
 はっと我に返るとヒュウが匙を持って鍋の中を指していた。
「湯、沸いてるぞ。具を入れてくれよ」
「あっ、ああ」
 レイは慌てて背後に向き直り、切った葉野菜と干し肉の乗った器を手に取った。こぼさないように鍋に入れ、あくが出てきたら匙ですくう。
 けれど心はどこか少し離れた場所にあって、あわよくば手頃な獣でも襲ってこないかなどと期待している自分がいた。そうしたらこの闇魔道の力で返り討ちにしてやれるのに、と。
 後に、レイは気づく。
 彼はこの時自らが手にした新たな力に酔いしれていた。つまりは調子に乗っていたのだ、と。

 

 幸か不幸か、レイのひそかな期待はその夜現実のものとなった。
 夜の帳が下りた森の中で、ヒュウは瞳だけを動かして毛布の中からささやいた。
「……レイ、起きてるか」
 焚き火の向こう側で横になっていたレイも声を低くして答える。
「ああ。何か、いるね」
「たぶん山犬だな。囲まれてる」
 エレブ大陸の山深くには街犬よりもひとまわり体躯の大きい獰猛な獣が棲んでいる。人々が家畜として、あるいは愛玩動物として飼育する街犬に対しそれらは山犬と呼ばれ、古くから恐れられてきた存在だ。めったに人里に下りることはないが、餌の不足する冬から早春にかけてまれにふもとのほうまで移動してくる例があった。
「山犬? わかるのか」
「あいつらはくせーからな、ニオイでわかる」
 ヒュウは毛布をかぶったままじりじりとレイのほうへにじり寄った。
 数年の旅の中でヒュウは何度か山犬の群れに出くわしたことがある。その経験から学んだことは、彼らはたいてい十匹ほどの群れで行動していること、悪臭を放つこと、力は強いが胴が大きいぶん敏捷さには欠けることだ。
「レイ、じっとしてろよ。何なら鍋でもかぶって防御しとけ」
 枕代わりの道具袋からファイアーの書を抜き取ってヒュウが言うと、レイは頷く代わりに不敵な笑みを浮かべた。
「何言ってんだよ、おれにはこれがあるんだぜ」
 そして同じようにミィルの書を頭の下から取り出してヒュウに見せた。
「へっ、頼もしいな。無理はすんなよ」
「無理なんてあるか。うすのろの山犬なんか楽勝だ」
「よし。じゃあまずおれが焚き火を明るくするから、見えたやつをどいつでもいい、攻撃してくれ」
「了解」
 そこからの二人の行動は迅速だった。
 毛布を蹴飛ばすと同時にヒュウは唱えた。
「ファイアー!」
 焚き火に向かって放たれたそれは消えかけた埋(うず)み火を大きく燃え上がらせた。
 夜闇に包まれていた森の中がぱっと明るく照らされたその瞬間、灌木の向こうにらんらんと光る山犬の眼がいくつも浮かび上がった。
「そこだっ、ミィル!」
 レイは一番近くの山犬へと闇魔法を撃った。墨を溶かしたような形なき闇のかたまりが地面に溶けた直後、それは唐突に山犬の足下から現れて山犬を呑み込んだ。
「グォン! グルルォン!」
 突如もがき始めた山犬に驚いたのだろう、ほかの山犬たちの眼の光がうろうろとうごめき、騒々しく落ち葉を踏む音が聞こえてきた。
「上手いぞ、レイ!」
「本番はここからだよ!」
 レイはすぐさま二発目の精神集中に入る。
 山犬たちはもはや気配を消しても意味がないことを悟ったのだろう、敵意を剥き出しにして金色の瞳と唸り声をこちらへいっせいに浴びせてきた。
「来るぞ!」
「ああ!」
 焚き火を挟んで二人が背を向け合ったとき、山犬たちは灌木の根元を蹴って躍りかかってきた。
「グオッ、グルォン!!」
「ファイアー!」
 理魔法を連続で唱えて迎撃しながらヒュウは視界をめぐらせる。一、二、三……合計十二、三匹。思っていたよりも数が多い。
 しかし背後のレイが負けていなかった。
「ミィル!」
 闇魔法は理魔法よりも発動に時間がかかるという巷間(こうかん)の定説をはねのける勢いでレイはミィルを放っていた。その速さたるや、ヒュウのファイアーと同等である。
 正直ヒュウは舌を巻いた。まだ使い始めて二日目の魔法をこれほどに使いこなすとは。レイはヒュウの勘をはるかに超える逸材なのかもしれない。
 とはいえまだ経験の浅い少年である。左側から飛びかかる山犬に料理用の鉄鍋を振り下ろしながらヒュウは背後へと声を上げた。
「レイ、大丈夫か!」
「余裕だよ! ミィルっ!」
 レイの操るミィルは的確で大きく、一度に二匹の山犬を巻き込んだ。その表情はむしろ水を得た魚のように生き生きと輝いている。
「飛ばしすぎて息切れすんじゃねえぞ!」
「あんたのほうが年寄りなんだ、自分の心配してなよ!」
「な、なんだと〜!」
 心配をして損をした、とばかりにヒュウは焚き火にくべてある棒きれを山犬に投げつける。山犬は火のついた棒に顔から突進し、グォンと鳴いて地面に転げた。
 魔力も魔道書も無限ではない。鍋でも棒でも使えるものは使う、それは長い間一人で旅をしてきたヒュウの生存術のひとつであった。
 その間にもレイはミィルを唱え続けている。魔力がほとばしり、風もないのに緑の髪の毛と紺青(こんじょう)のマントがぶわ、と浮いていた。
 立っている山犬の数は一匹、また一匹と減り、そのうち残るはわずか二匹となった。
 二匹の山犬はもはや勝ち目なしと観念したのだろう、唸りながらも尾を垂らして後ずさりし、やがて踵を返して灌木の向こうへと飛ぶように逃げ去った。
 ヒュウとレイは無事山犬の群れを撃退できたのだ。
「ふー、何とかなったな!」
 汗で額に張りついた前髪をかき上げてヒュウは一息つく。魔法は剣などに比べて身体運動が少ないとはいえ、心身が疲弊することに違いはない。
 レイのほうに向き直ると、レイは涼しい顔をして魔道書を閉じていた。
「ふん、あんまり大したことなかったね」
「お、お前なぁ……あれだけミィル連発して息も上がってねぇのかよ」
「別に?」
「末恐ろしいガキだぜ、ったく……。でもまあ、あとからドッと疲労がくることもあるからな。身体冷やさないように用心しろよ」
「はいはい」
 ヒュウの忠告を聞いているのかいないのか、レイは鼻で笑った。可愛げのないガキだぜ、とヒュウは半眼になって肩をすくめる。
「さて、と。場所を変えてもう一眠りするかな。ここはもうすぐ屍肉を漁る猛禽類どもがやってくるだろうからな」
 辺りを見渡せば二人が倒した山犬たちの死骸が十ほども転がっている。こんな中で再び休むのは気分的にも御免だった。
「じゃあさ、どうせもうじき朝が来るんだし、このまま出発しちまおうぜ? エトルリアはもうすぐなんだろ?」
「げっ、マジかよ!? ろくに寝てねぇぞ!」
 ヒュウは頬を引きつらせたがレイは熱のこもった声音で主張した。
「おれは早くエトルリアに行ってもっともっと闇魔道を学びたいんだ! ミィルが十分使えることはあんたもよくわかっただろ? 早く次の段階を試したいんだよ」
 実戦で闇魔法を使ってみてレイは確信していた。自分の力はまだまだこんなものではない。もっと強大な魔法を使役できる気がする、いやできるに違いない、と。
 昨日までとは眼の色を変えて熱弁するレイにヒュウは一抹の危うさと戸惑いを覚えたが、ヒュウとて一から魔道士の道を歩んできた男だ、早く上達したいと望む若き向上心はわからないではない。
「うーむ……ま、そんなに言うなら、出発するか?」
「ああ! さあ、すぐに支度をしよう」
 ヒュウが折れるとレイは喜々として毛布をたたみ焚き火の始末をし始めた。
 そんな彼を眺めてヒュウはげんなりと溜息を落とす。どうやら今日は寝不足の旅路になりそうだ。そして、
「本当に大丈夫かよ……」
 と、才に走る幼き闇魔道士への不安が滲む呟きを漏らした。

 

 はたして、ヒュウの危惧は的中した。
 森を抜けて大通りに出た早暁(そうぎょう)、分厚い雲から雨粒が落ち始めた。さほど強い雨ではなかったが、念のためヒュウがレイに雨宿りの如何を尋ねたところ、レイはマントを頭からかぶれば問題ないからと先を急ぐことを優先した。
 異変が起こったのは昼頃、ちょうどリキアとエトルリアの境あたりの道端でのことだ。
 雨をしのぐため、二人は大きな常盤木(ときわぎ)の下に避難して昼食をとっていた。
「おい、もう食わねえのかよ?」
「う……いらない……」
 八等分に切った甘い果実をたった一切れ食べただけでレイはフォークを置いた。その表情は固くこわばり、どことなく青ざめて見える。
「どうした、寝不足で疲れたのか?」
 心配そうに眉をひそめてヒュウが問うと、レイは自分の胸のあたりの服地を握って弱々しく答えた。
「なんか……気分悪い……」
「何だって?」
 慌ててヒュウは自分のフォークを置き、レイの横に駆け寄った。そしてレイの顔色を近くで見るなり大きな手をレイの額に当てた。
「お、お前熱があんじゃねーか!」
 レイの額は高熱を発して火照っていた。身体も小刻みに震えている。
「寒い……」
「ちょっと待ってろ」
 ただごとではないと悟ったヒュウは荷物から毛布を引っ張り出し、レイのマントの下に仕込んでやった。
「どこか休める場所は……」
 前後左右を確認すると、少し離れたところに畑が見えた。その傍には柱に屋根を組んだだけの粗末な四阿(あずまや)がある。目を凝らして見ると、どうやら農具を置いたり収穫物を干したりする場のようだった。
「屋根があるだけマシか! レイ、あそこまで歩けるか? 少し休んで行こう」
 食器を手早く片付けてヒュウが言うとレイはふらついているのに難色を示した。
「何で……このままエトルリアに……」
「ばか! 着く前にぶっ倒れたら元も子もねぇだろうが!」
 平素は剽げているヒュウにしては珍しく、叱りつけるような強い語気だった。一瞬レイはびくりとひるんだが、やがて抵抗を諦めて肩を落とした。
「……わかったよ……」
「よし、いい子だ。しばらく休んで、雨が上がった隙にさっき通り過ぎた村まで戻って宿をとろう」
 できれば医者にもかかったほうが良い、とヒュウは付け加えた。
 レイは来た道を戻らねばならぬことに不満を覚えたが、次の街となると国境の関を抜けたその向こうになる。この震える身体では異を唱えることができなかった。
「荷物は持ってやる。歩けるか?」
「うん」
 レイは荷物をヒュウに預け、毛布とマントを胸の前でかき合わせてよろよろと歩き始めた。
 遠目では分からなかったが、畑の傍の四阿には農具のほかに筵(むしろ)や藁編みの座布団も置いてあった。農夫たちが畑仕事の合間に一服するのにここを使っているのかもしれない。屋根のおかげで雨に濡れていないのは幸いだった。
 ヒュウは筵の上に自分の毛布を敷き、レイをそこに寝かせてやった。
「雨が上がるまで休んでな」
「うん……」
 毛布に顔を埋めてくぐもった声でレイは答えた。やれやれ、とヒュウは嘆息する。
「ったく、言わんこっちゃねえ。魔法ってのは自分が思ってるより疲れるもんなんだよ。初心者がバカスカ撃ってりゃなおさらだ。そのうえ寝不足で雨の中歩き詰めじゃあ、熱が出ても文句は言えねえぞ」
「…………」
「今はおれがいるからまだいいが、一人旅ともなりゃ体調管理も重要な仕事だぜ? これからは自分の限度を超えねえように、加減ってもんを覚えるんだな」
「…………」
 ヒュウは藁編みの座布団に胡座(あぐら)をかき、ややきつめの口調で言った。
(ま、でもなぁ)
 ヒュウは毛布の中で無言で頷くレイを見下ろし、左右非対称に顔を歪めた。
(一人で孤児院飛び出して、初めてこんな長旅して、初めて実戦で魔法使ったんだもんな……こんなちびっこいガキが)
 憐れみ、と言えばレイは憤慨するだろうが、それにも似た気持ちをヒュウは覚えた。身体を丸めて悪寒に耐えているレイを見下ろしていると「大人である自分が守ってやらねばな」という気分にさせられる。
 口を酸っぱくしてもう一言二言忠告してやりたいところだったがぐっと飲み込み、ヒュウは毛布の上からレイの頭をぽんぽんと優しく叩いてやった。
「……ここまでよく頑張ったよ、お前は」
 レイの返事はなかった。
 眠ったのか、返事を拒否したのかはわからない。
 ヒュウはレイをしばし見つめ、それから灰色の曇天を仰いだ。
「あーあ。雨、止まねぇなぁ」

   *     *     *

 レイが我が身に異変を覚えたのは昼前のことだった。
 急に背筋に悪寒が走り、あれよあれよという間に足が枷でも引きずっているかのように重くなり、視界はぐらぐらと揺れ始めたのだ。まるでひどい風邪を患ったときの高熱の症状が一度に襲いかかってきたかのようだった。
 原因はいくつだって思い当たる。慣れない野宿による睡眠不足、食の変化、長歩きの疲れ、心の緊張、そしてヒュウの注意も聞かずに好き放題に使った魔法……。そこに雨による冷えが重なり、ついに身体が悲鳴を上げたのだ。
 ヒュウの言った通り、魔法を使いすぎなければ、夜もう一眠りしていれば、どこかで雨宿りしていれば、と今更後悔しても詮ないことが頭の中をぐるぐる回る。
 せめてヒュウにこの異変が気取られないようにと、レイは表情だけは平常を装って歩き続けた。
 ヒュウが大きな常盤木を見つけ、そこで少し早めの昼食をとろうと提案したのはレイにとって救いだった。少し休めばましになるだろうと思ったのだ。
 しかし食欲がまったくなく、果実一切れを飲み込むのがやっとであった。ヒュウのひやりとした手が額に当てられたとき、もはや言い逃れできないことを悟った。
 すべては己の過信と増上慢が招いた事態だった。
 四阿の屋根の下で毛布に包まり、レイは悪寒と不甲斐なさと闘っていた。説教を途中でやめてぽんぽんと頭を撫でたヒュウの手が妙に優しく、かえって己へのいらだちがつのる。
(おれは、何をあんなに得意気になっていたんだろう)
 夢かうつつか朦朧とした意識の中で、レイは高熱とは裏腹に力への酔いが冷めていくのを感じた。
(ミィルが使えたところで、おれはまだ旅も魔法も初心者のガキなんだな)
 そんな単純な事実をほんのひとときでも忘れ去っていたことが悔やんでも悔やみきれない。
 一度倒れてしまった身体は簡単には動いてくれそうもなかった。

 

 いつの間にか眠りに落ちていたレイの意識を呼び戻したのは耳障りな唸り声と鼻をつく悪臭だった。
 眠っていたのは数分間かそれとも一時間以上かも定かではなかったが、はっと異変に気づいて薄く目を開けるとそこにはいつの間にか緊張した空気が漂っていた。
「グルルォ……」
「ちっ、こんな時に! 昨夜の残りの二匹か!?」
 レイを守るように前に立つヒュウの向こうに、大柄な獣の姿が見えた。山犬である。
「…………」
 戦わなければ、と起き上がろうとしたが顔を持ち上げるだけで頭がズキンと痛む。山犬と対峙しているヒュウの姿がひどく遠くに見えた。
 そんなレイには気づいていないのだろう、ヒュウは山犬に向かって気風(きっぷ)のいい啖呵を切った。
「レイには指一本触れさせねえぞ! このヒュウ様が本気で相手してやる、覚悟しな!」
 それを皮切りに、昨夜の残党らしき二匹の山犬は地を蹴り飛びかかってきた。
 危ない、とレイは叫ぼうとしたがヒュウは身じろぎひとつしていない。よくよく目を凝らせば、ファイアーの書とは違う魔道書を手にしている。
 山犬を睨むヒュウの長髪と服の裾がぶわりと浮き上がり、火の粉のような燐光が身体からきらめき溢れた。普段は現れることのない魔力の奔流が竜巻のようにヒュウの周りを取り巻く。
(ファイアー、じゃない……? 何をする気だ……?)
 ファイアーより一段階高等な魔法であるサンダーならば魔道書の表紙は黄色のはずだ。だが、今ヒュウがかかげている魔道書の表紙はまるで業火を思わせる紅蓮の赤。
(まさか……いや、あれは理魔法の達人だけが扱える書……こんなすっとぼけた旅の魔道士に使えるわけが……)
 レイの脳裏によぎった書の名は、エルファイアー。サンダーよりもさらに高等な魔法とされ、レイも実際にその使い手を目にした記憶は一度もないほどの難書である。
 だが、そのまさかだった。
 ヒュウは迫り来る二匹の山犬めがけて右手を振り下ろした。
「二匹まとめてあの世行きだ! くらえっ、エ・ル・ファ・イ・アーーー!!」
 レイの耳元で、ごう、と空気が動く唸りが聞こえた。
 ヒュウの手から放たれた火球はまるで意志を持った生き物のように山犬へと飛んでいき、燃えさかる縄で締め上げ絡みつくと巨大な火炎の渦へと形を変えた。
「グルォォォォォン!!」
 もがく山犬の叫びをもかき消す勢いで火炎の渦は力を増す。
「とどめだ!」
 ヒュウは突き出していた右手をぐっと握りしめた。
 同時に火炎の渦は絞られたようにぎゅっとすぼまり、次の瞬間、弾けるように爆発した。
 残ったのはもはや形も判別できないほどの煤(すす)。断末魔すら許さぬ業火が為したわざだった。
「おととい来やがれ!」
 火が完全に消えたのを確認し、ヒュウは勢いよく魔道書を閉じる。
 その一連の様子を毛布の中から動けずに眺めていたレイは、知らぬうちに下唇を噛んでいた。
(……どこにでもいるような魔道士かと思ったら)
 視線の先に、ヒュウの大きな背中が見える。
(聞いてないぞ、エルファイアーまで扱えるなんて)
 自分と同じ、初級の魔道書かせいぜいその一段階上までだと思っていたのに。たかがミィルごときで得意気になっていた自分はいったい何なのだ。
 羞恥と羨望がないまぜになってレイは毛布に顔を埋めた。
 目を閉じても、エルファイアーを放ったときの輝くようなヒュウの勇姿が瞼に明滅してやまない。
(ちくしょう……かっこいいじゃないかよ……!)
 あんなふうになりたい。
 あんなふうに、ヒュウのように……。
 悪寒と焦がれるような熱の中、レイの意識は再び混沌へといざなわれてゆく。
 と、そこへヒュウの声が降ってきた。
「レイ、行くぞ。雨がやんでる」
 重たい頭をもたげると、ヒュウは通常背に負う荷物を身体の前側に掛けていた。そしてレイの前に屈み、背を向けた。
「起きられるか? ほら、おぶされ」
「は……?」
 レイは誤って砂を噛んだような表情を浮かべたが、ヒュウは構うことなく背へと促す。
「その様子じゃ村まで歩けねえだろ。おれ様がおぶってやるって言ってんだ」
「なっ……そんなガキみたいな真似ができるかよ……!」
「お前もガキだろうがよ。ほら、またすぐに雨になるから、今のうちに早く」
 見れば空の雲間はほんの一部で、黒い雨雲が今後もしばらく天を覆うことが簡単に予測できた。
「……いい、自分で歩く……うっ」
 それでも強気に出ようとしたレイは自力で上体を起こしたが、同時に強いめまいに襲われて額を押さえた。
「そんなんで歩いたら本当にぶっ倒れちまうぞ! つまんねえとこで意地張ってんじゃねえ」
 ヒュウはそう言うなり、レイの右手首を掴んで自分の右肩へ背負い込んだ。続けて左手首も捕まえて、完全にレイを背中の上に乗せてしまった。
「お、降ろせよ……!」
「毛布とマントはちゃんと掛かってんな? よし、立ち上がるからしっかり掴まってろよ」
 レイの抗議を完全に無視し、ヒュウはレイを背負って立ち上がった。
「うわっ」
 急に視点がぐんと高くなり、レイは慌ててヒュウの首にしがみついた。ヒュウは前に荷物、後ろにレイを背負ってずんずん歩いてゆく。
「……軽いな、お前」
「うるさいな、これからでかくなる予定なんだよ」
「…………」
 レイの身体の軽さがこれまでの彼の人生の苦労をあらわしているような気がして、ヒュウは何も答えられなかった。
 道中、幸いにも行く手を阻む者は現れなかった。
 最寄りの村まで戻るには通常ならば徒歩で一時間ほどの距離だが、レイをおぶった状態ではそれよりも長くかかると思われる。
 魔道士にしては体格が良いほうとはいえヒュウも決して筋骨隆々というわけではない。しかしながらヒュウはレイを背負って、まっすぐ前だけを見据えて歩き続けた。
 ヒュウの背で揺られながら、レイは胸のあたりがぎゅうと絞られるような感覚を覚えた。つらいような、苦しいような、せつないような、腹立たしいような、それでいて申し訳ないような。如何とも言葉にしがたい感覚に、鼻の奥がつんとなる。
「……なあ」
「あん?」
 ヒュウの肩に顔を埋めてレイはぽそぽそと言葉を継いだ。
「……ごめん……おれ……あんたに迷惑かけて……」
 このときヒュウが歩きながら目を丸くしたことを、レイは知るよしもない。
 そして照れを隠すようなぶっきらぼうな口調で、
「迷惑とか思うんじゃねえよ、ばかやろう」
 と返したあと、ヒュウが口元を緩ませたこともレイは知らない。
 レイはヒュウの背から伝わってくる心地よい振動とあたたかい体温の中、徐々に眠りに落ちていった。

   *     *     *

 ――あたたかく、広い背中。自分の手がまだもみじほどの大きさだった頃。
 みどりあふれる春の丘、裾野に広がる花畑、きらきら輝く小川の水面(みなも)。
 太陽の光の下をゆっくりと歩く痩身の男の背中にレイはいた。日に焼けた肌、炎のような緋色の短髪。ごつごつして固い背中だったけれど、レイはそこが大好きだった。
「とうさん、とうさん」
 背の上でレイはきゃっきゃとはしゃいでいる。背の主の顔はぼやけていて定かではないが、背上の子供を愛おしそうに支えていた。
 双子の兄ほど聞き分けの良くなかったレイも、父の背中の上にくると途端に素直になるのだった。
 場面が変わった。
 小さなレイは赤い顔でぜえぜえと苦しげに荒い息を吐きながらベッドに横たわっていた。首には風邪に効くという薬草が貼られている。
「頑張れ、レイ」
「とう、さん」
 ベッドサイドに屈んだ父は、レイの手をぎゅっと握った。レイも父の骨ばった手をきゅっと握り返す。
 またも父の顔はぼやけていて見えない。されどそのほっとするようなあたたかさは手のひらから魔法のようにレイに伝わってきた。
 熱の恐怖に苛まれていた幼いレイは、やがて安心したように規則正しい寝息を立て始めた。
 遠い、遠い記憶にかすかに残る、あたたかな背中と手――

   *     *     *

 ヒュウが村に着いたとき、陽はすでに南中よりも大分傾いてしまっていた。
 目についた診療所では医者がすでに回診に出てしまったあとだと聞かされ、ヒュウはとりあえず先に宿をとることに決めた。
 肩も腕も足腰も筋肉が悲鳴を上げていたが、「よっこらしょ」とレイを背負い直すとヒュウは診療所で教えてもらった宿屋へとまっすぐ向かった。
 全部で五部屋しかない小さな宿屋だったがあまり流行っていないらしく、店主は二つ返事でヒュウたちを空室へ迎え入れてくれた。
 眠っているレイをベッドに下ろして布団に寝かせると、ようやく軽くなった身体がどっと疲れをうったえてきた。
「運動不足だったかな、こりゃあ」
 凝り固まりそうな肩をぐるぐる回し、ヒュウはひとりごちる。
 質素な板張りの部屋の中、返事をする者はいない。旅の連れはベッドの上でやや荒いながらも安定した寝息を立てている。
 立ち上がるのも億劫だったので、ヒュウは膝歩きでベッドに近寄った。
 そこで眠る少年の顔は十歳そこそこの少年そのもので、とてもではないが一人で家を飛び出し、闇魔法を操って戦っていた魔道士には見えない。
「……無茶してんなあ」
 世の一般的な子供達と比較し、ヒュウはレイの境遇を憂いた。
 と、そのとき、眠っていたレイが苦しげに身じろぎした。
「う……」
「レイ!?」
 ヒュウははっとして枕元を覗き込む。そこで一瞬、ぎょっとしたようにヒュウの動きが止まった。レイの頬にはひとすじの涙が流れていたのだ。
 そしてレイの唇はうわごとのように震える声を紡ぎ出す。
「とう……さん……」
「!!」
 父さん。今、間違いなくレイはそう口にした。高熱にうなされて眠る意識の底で、レイは父を呼んだのだ。
(……こいつ、父ちゃんの夢を見てんのか……)
 どんなに背伸びしようと、本来ならばまだ親に甘えていてもいいはずの子供なのだ。レイがいつどういう経緯(いきさつ)で孤児になったのかはわからないが、あの小生意気と言ってもいい強気な面構えの裏で、心の奥底にはきっと忘れ得ぬ父母の面影が深く刻まれているのだろう。
(忘れられねえよな……)
 ヒュウは苦い顔でレイを見下ろした。
(わかるぜ、おれもガキの頃に父ちゃんと母ちゃん、死んじまったからよ……)
 レイには言っていないが、ヒュウは子供の頃に両親を亡くしている。うなされながら父を呼ぶレイを眺めていると、しばらく忘れていたはずの当時の自分がじわりと思い出されて重なった。
「と……さん……」
 レイは苦しげに寝返りを打ち、何かに追いすがるように震える右手を布団から出した。だがその手は空(くう)を掴むばかりで、決して父の手を取ることはできない。
 そんな虚しき光景を見かね、ヒュウはレイの手を両手でぎゅっと握りしめてやった。
「……大丈夫、大丈夫だ」
 言い聞かせるように、ヒュウはただただ繰り返した。
 するとレイは存外強い力でヒュウの手を握り返してきた。まるで「もう二度と離すまい」とでも言うふうに。
 そして安堵したようにふっと顔の緊張を緩め、再び規則正しい寝息を立て始めた。涙の跡も乾き始めている。
「大丈夫だから、今は安心してゆっくり眠れよ……」
 ヒュウの言葉が伝わったのだろうか。それからレイは、翌朝まで一度もうなされることなく眠り続けた。

 

 ――朝だ。
 そう認識したレイの頭は昨日よりもいくぶん冴えていた。少し熱が下がったのかもしれない、と朝ぼらけのまどろみの中でレイが思った、そのとき。
「……っ!?」
 右手のぬくもりに気付き、レイの眠たげだった双眸は一気に刮目した。
 ベッドにもたれるように紫色の毛玉があって(ヒュウの頭だ)、なぜだか、まったくどういうわけだか、その手がレイの右手を握っているのである。
 さっぱり状況を理解できず狼狽したレイは素っ頓狂な声を上げた。
「お、おいてめえ! 放せよおいっ!?」
「ん……」
 紫の毛玉がもぞりと動き、のそのそと顔を上げる。
「……お? レイ、目が覚めたのか。熱はどうだ?」
「どうだ、じゃないっ! これは何だこれは!」
 早朝からキャンキャンと吠えたてる小型犬に難儀する飼い主のごとく、ヒュウは起き抜けの顔をしかめた。
「……ったく、朝っぱらからうるせえなあ、何だってんだよ……ん?」
 そこで、自分が床に座ってベッドにもたれていて、さらに己の左手がレイの右手をがっちり握っていることに気がついた。
「あー……おれあのままここで寝ちまったのか。道理で肌寒いわけだ」
 そう言って寝ぼけ面を再び布団の端に埋め、毛布を引っ張り始めるからレイはたまったものではない。
「おいバカ寝るな! とりあえず手を放せって!」
「手……?」
 ヒュウはレイの手を掴む左手を持ち上げ、まじまじと眺めた。レイの頬にかっと朱が差す。
「〜〜〜!」
「ああ、これ。何、お前覚えてねえの」
「何のことだよ!?」
「お前、昨日うなされてて、うわごとで、」
 言いかけた直前、ヒュウは喉元で言葉を止めた。
「…………? 何、早く言えよな」
 怪訝そうに眉根をひそめるレイの手をそっと放し、ヒュウは言葉を飲み込んだまま立ち上がった。そして窓辺へと歩み寄り、おもむろに視線を外へ投げる。立て付けの悪い木枠に嵌められたガラスがカタカタと風に鳴った。
「……うわごとで、『父さん』って呼んでたんだ」
「は……?」
 レイは我が耳を疑った。
「そ……そんなわけない! 笑えねえ冗談はやめろよなっ!」
 レイはヒュウに向かって声を荒げたが、何も言わない背中がそれが真実であることを物語っている。腹の底から羞恥心がせり上がってきてレイは思わず頭を抱えた。
「う、嘘だろ……五つ六つのガキじゃあるまいし……」
 まるで幼児のような寝言を言ってしまった。親のことなどとうに忘れたと思っていたのに。さらに不幸にもそれをヒュウに聞かれてしまった。
 恥ずかしさとショックが幾重にも重なり、顔すら上げられない。ヒュウが向こうを向いてくれているのがせめてもの救いだった。
「おい……このこと、誰にも言うなよな。っていうか、忘れてくれ。記憶から抹消しろ」
 しかしヒュウが返事をする代わりに言ったのは、いつになく真剣な問いだった。
「なあ、レイ。答えたくなけりゃ答えなくていいんだが、」
「何だよ」
「お前の……父ちゃんと母ちゃんはどうしてる?」
「えっ?」
 レイは予想外の質問に、顔を覆う指の間から目だけ覗かせて窓辺のヒュウの背を見た。
「おれが四歳の頃孤児院に来てから間もなく死んだらしいけど。それが?」
 両親の死とはいえまだものごころつかない頃の話である。レイは大して湿っぽさもない声でさらりと答えた。
「そうか……」
 だからそう呟いたヒュウの声が存外静かでレイはかえって当惑してしまった。
 幼くして親と死別していることを気の毒に思って慰めの言葉をくれる大人はこれまでにもあったが、レイにしてみれば正直ぴんとこないところもある。父の大きな手だとか母の作る目玉焼きだとか断片的な記憶はあるのだが何せ顔すら覚えていないのだ。どう反応していいのかわからない。
 が、ヒュウの声に含まれていたのは慰めとは少し異なる意味合いだった。
「おれも、両親亡くしちまったんだ、ガキの頃に」
「えっ」
 くるりと振り返ったヒュウはどこか困ったような微笑を浮かべていた。
「だから、別に恥だとか思わねえよ。いなくなっても心のどっかに残ってんだ。昨日はたまたまそれがひょっこり出てきただけで」
「……ヒュウ」
 ヒュウも、両親がいなかったのか――
 気づけばレイは顔を覆う手を下ろして呆然とヒュウを見上げていた。東向きの窓から差し込む朝日を背に受けたヒュウの身体の輪郭が透けるようにきらめいて眩しく見える。
「ま、だから何だ、気持ちがわかるとまでは言わねえけど。おれはまったく気にしちゃいねえから、お前も気にすんな」
「…………」
 ヒュウの鷹揚(おうよう)な構えを見ていると、尖っていた羞恥心や反抗心がふっと和らいでゆく。この人の前ならば強がる必要はないのかな、そんな気にさせてくれる。
 レイはしばらくの間ヒュウを眺め、やがてこくりと頷いた。
「ん……じゃあ、わかった。そういうことにしとく」
「うむ、よろしい」
 ヒュウも満足気に頷く。ただこの男の場合、一言余計になりがちなのが玉に瑕である。
「また夜寂しいときは手ぇ握っててやるから、遠慮なく言えよ!」
「……っ、お前なあ!?」
 再びレイはかっと顔を紅潮させ、頭の下にあった枕を思い切りヒュウ目掛けてぶん投げた。
「うげっ!? ばかやろう、おれ様の男前面を潰れたらどうすんだよ!」
「誰が男前だ、潰れてしまえお前なんか!!」
「いてっ、いててっ! や、やめろって」
 毛を逆立てて威嚇する猫のごとく憤慨してレイは手近にあったものをぽいぽい投げる。ヒュウは大げさに頭を抱えるようにして部屋の中を逃げ回りながら、されど嬉しそうにふっと表情をやわらげた。
「へへ、元気そうじゃねーか。良かったな」
「!」
 今にも空中に放り投げられんとしていた花瓶がすんでのところで動きを止めた。
「ったく、心配させやがって。でもそんだけ威勢がいいなら数日休めば大丈夫そうだな、安心した」
「あ……」
 言われてみれば、とレイは思った。昨日の調子では喋ることだけで精一杯だったのに、今はこうして花瓶だって投げようと思えば投げられる。
 助かったのだ――ヒュウのおかげで。
 レイはあらためてそう実感した。
「顔色もそう悪くねえ。何か食べられそうか? 下で朝飯貰ってきてやるよ」
「え、ああ。油っこくないものなら」
「わかった、じゃあちょっと待ってろよ」
 そう言ってヒュウは戸口へと向かってゆく。慌てて花瓶を戻したレイがその背中に声を掛ける前に、扉はぱたんと閉められてヒュウは廊下へと消えた。
 開きかけた口のまま、レイはしばし扉を見つめ、嘆息する。
「……くそっ。『ありがとう』って言おうと思ったのになあ……」
 レイが唇を尖らせてそう呟いたことは、投げられずにすんだ花瓶だけが知っている秘密の話――。

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