【BL注意】緑高『HOME』

ぬるいですがBLなので閲覧にご注意ください

以前友人の御本に寄稿させていただいたチャリア小説です。
高校卒業後の緑高のお話。

傾向:BL、ややシリアス、とても甘い

 

HOME

 最後のキスは、余韻も残さないほどの触れるだけのものだった。
「じゃあね、真ちゃん。元気でな」
 そう笑って高尾は愛車のドアを勢い良く閉め、低いマフラー音とともに車を発進させた。その白い車体が緑間の視界から消えるまでわずか三秒も要さなかっただろう。されどその一瞬に、緑間の胸には高尾とこのボロアパートで過ごした実に六年間もの日々の思い出が次から次へと浮かんではシャボン玉のようにはじけて消える。
 止めることはしない。高尾は、夢を叶えに旅立ったのだから。
 期間は未定。行き先は福岡、このたび高尾が念願の就職を叶えた大手自動車会社の関連企業だ。車好きの彼は道中寄り道をしながら数日掛けて運転して行くらしい。
「地方で経験を積んで結果を出し、必ず東京本社に栄転してやる」
 内定を得て福岡への配属が決まった時高尾は目を輝かせながらそう息巻いた。
 思えば、高尾が「真ちゃん、オレ、車作りたい!」と言い出したのもこのアパートの駐車場だった。あの頃はまだ緑間も高尾も大学一年生で、免許も取りたてで、高尾の愛車も今ほどチューンされてはおらず双葉マークがボンネットを飾っていた。
「あれからもう六年も経ったのか……早いものだな」
 入居したての頃よりさらに古ぼけたアパートを見上げ、緑間はぽつりと呟いた。
 高尾を見送ってから玄関に戻ると、そこにはもう緑間の大きな靴以外のものはなかった。いつも高尾が脱ぎ散らかしては緑間が文句を言っていたサンダルも、なくなってしまえば妙に殺風景に感じられる。もう玄関で狭い思いをすることもないのに、緑間は脱いだ靴を端に寄せた。
 高尾と暮らした六年間のうちについた、癖だった。

 

 緑間と高尾がこのアパートに同居することになったのは、別段はじめから約束をしていたわけでもなければ進学した大学が同じだったわけでもない。緑間は某有名大学の理学部だし、高尾は別の中堅大学の工学部という、まったく違う進学先だ。ただ都会ではよくひとつの大学が複数の場所に学部別に点々とキャンパスを持っていることがあり、偶然、互いの通学先が近かったのだ。
 どちらも神奈川県の東端に位置しており、東京の実家からでは通学が不便だったので、
「どうせ下宿すんなら、一緒に住んじゃう? 真ちゃんとオレの華の同棲生活。なーんてな!」
「ふむ。ルームシェアならばラッキーアイテム部屋を持てるほどのでかい家に住めるのだよ」
 元々ほぼ毎日一緒に過ごしていた彼らのこと、冗談半分から始まってトントン拍子で話が進んだのだった。
 そうして両者のキャンパスのほぼ中間に、古いけれども3LDKの広さがある物件を借りることとなった。うち一部屋はもちろん緑間のラッキーアイテム部屋である。
 それから学部四年間と修士課程二年間。緑間は希望する研究室が医学部だったため途中で東京キャンパスに変更となったが、それでも変わらずこの場所で一緒に暮らし続けてきた。この家には高尾との思い出が数えきれないほどに詰まっている。
 がらんとした玄関からキッチンへ進むと、二人分あった食器が綺麗に半分になっていた。
 越してきたばかりの頃はお互いまるで料理ができなくて、三時間の奮闘の結果がべちゃべちゃのご飯と薄すぎる味噌汁と煮物か炒め物かも分からない何かという残念な食卓だったことを思い出し、緑間は思わず苦笑した。
 キッチンの反対側にはひとりで使うには大きすぎる洗濯機がある。初めて洗濯をした時、高尾が洗剤の用量をろくに見ずに勢い良く投入したために泡が溢れ出てあわや床が水浸しになりかけたいわくつきだ。
 その奥の狭い風呂を見てまたくだらない思い出が蘇る。学士論文で二人とも忙しかった頃、お互いバイトをする時間が激減して家計が火の車になった時期があった。そして少しでも水道代とガス代を浮かせようと、風呂の水かさを増やすべくこの狭い湯船に二人でギュウギュウに入ったのだ。だがそれが一週間ほど続いた頃、元々古い湯船がミシッと危険な悲鳴を上げたので、それ以来この節約術は廃案となった。
 キッチンを抜けると八畳のリビングがある。忘れもしない、初めて大喧嘩をしたのがこの場所だ。
 ルームシェアにも慣れ、最初の盛り上がりが次第に互いの生活習慣の差への苛々に変わり始めた頃、ほんのささいな理由からひどい喧嘩に発展してしまった。そういう時先に頭に血が上りやすいのはむしろ普段物静かな緑間の方で、「勝手にしろ! オレは出て行く!」と荷物をまとめ始めたところ、高尾に大泣きされたのだ。面食らった緑間の前で「いやだ、出て行くなんて言うなよ、真ちゃんがいないといやだ、」とまるで子どもみたいにぼろぼろ涙を落とす高尾。そのなりふり構わぬ泣き面を見て緑間は悟った、この友情とも愛情とも判断がつかないもどかしい気持ちを抱いていたのが自分だけではなかったことを。
 このリビングは、初めて大喧嘩をした場所であると同時に、その後初めてキスをした場所でもあるのだ。
 以来恋人同士になったふたりだったが、いつまでも学生時代が続くわけではない。
「……結局、先に出て行ったのはお前のほうだったな」
 今頃高速道路を軽快に走っているであろう高尾に皮肉を言い、緑間は寂しげに笑った。
 緑間は、高尾の第一志望への内定を盛大に祝った。そして、ふたりで話し合って決めた。
「今の関係はいったん終わりにしよう」
「お互い結果を出すまで死に物狂いで仕事に専念しよう」
「離れている間、どちらかに好きな女性ができたら応援しよう」
 緑間も四月からは博士課程である。教授のもとで学ぶと同時に後輩を教える立場になるし、権威ある学術誌に投稿できるような成果を出さねばならない。朝昼晩研究に明け暮れる日々が続くのだ、高尾との話し合いに異論はなかった。大人になるとはこういうことだ、と分かっているつもりだった。
 だが今、リビングから高尾の部屋に移動し、主がいなくなったその部屋を見た瞬間。
「……っ!」
 何種類もあった高尾のゲーム機器が、ない。床に散らばっていた漫画や雑誌が、ない。近所の公園に持って出ていたバスケットボールが、ない。ふたりじゃれあったベッドが、ない。
 ない、ない、何もないのだ。
 住む人と物を失くしただの空き箱となったその六畳間は、覚悟していた以上の空虚さをこれでもかと緑間に見せつけた。
「高尾」
 思わずその名を呼ぶ。妙に広く感じられる空き部屋に声が響く。
 クローゼットを開けるとそこには衣類の消臭スプレーだけが残っていた。そういえば高尾の匂いがしない。立つ鳥あとを濁さず、とは言うが、高尾は物だけでなく、その残り香すらも置いていくことを許さなかったのだ。緑間に自分の痕跡を残さないように、新しい生活を始められるように。それは新社会人となる高尾自身の覚悟でもあった。
「高尾……!」
 その日、緑間は独り泣いた。
 高尾のいない広さと静かさに耐えられず、一週間後、アパートを引き払い大学の近くの1Kへと引っ越した。
 さらに一週間経つと博士課程が始まり、感傷に浸る余裕もなくなるほどに忙しくなった。いくら寂しかろうが腹は減るし仕事は待ってくれない。
 寂しさを抱えながらも、それぞれの道をひたすらに邁進する日々は飛ぶように過ぎていった。

*   *   *

 五年の歳月が経ち、緑間はあと四ヶ月で二十九という歳になっていた。
 春とはいえ日が傾いてくると風が冷たい。緑間は東京駅の八重洲南口で待ちながら、ジャケットの前をかき合わせた。
 遅い、遅すぎる。こんなことならば地下の暖かい場所で待ち合わせをしておくのだった。
 そんな緑間の恨み節を知ってか知らずか脳天気な声が飛んできたのはその時だった。
「やっほー真ちゃん久しぶりー! 待ったー?」
「遅い! 待ったに決まっているだろう、三十分も遅刻だ!」
 威嚇して牙を剥く獣さながらの形相で緑間が振り返った先に、彼はいた。――二十八歳の、高尾が。
「わりぃわりぃ。いやー久々の東京駅だからさあ、新幹線降りたら間違えて八重洲の地下街に出ちゃって。そしたら全然知らねえ店が増えてんの、ほら」
 高尾は得意気に某有名菓子メーカーの袋をがさがさ持ち上げた。東京駅限定の菓子がたくさん詰まっている。
「ハァ……高尾、いつまで若者気分でいる気なのだよ」
「うっわ、やべえ。生の『なのだよ』とか超懐かしいんだけど。感動して泣いちゃいそう」
「茶化すな。それに電話ではしょっちゅう聞いているだろう」
「電話越しに聞くのとじゃ違うんだって! 分かってねえなー」
 力説して高尾はケラケラ笑った。緑間は不機嫌そうにぶすっとしてみせた後、ふっと微笑んだ。
 ああ、高尾だ。高尾がいる。
 この目、この声。
 高尾だ。
 ここ数年で胸の奥の奥のほうへと押し込まれていたものが、ふわりと息を吹き返した心地がした。
「で、どーする? オレ腹減ったな」
「店を予約してある。川ちゃんでいいだろう?」
「おっ、気が利くねえ、サンキュー!」
 辛党の高尾は『世界の川ちゃん』のスパイシーな手羽先が好物だ。今日は祝いの席なので本来ならばもっと小洒落た店の方がふさわしいのかもしれないが、一緒に暮らしていた頃にもよく行ったあの居酒屋の他に選択肢は思い浮かばなかった。
「東京本社勤務決定、おめでとう、高尾」
 緑間が言うと、高尾は一瞬ぽかんと目を見開いた。その双眸はやがてふっと細められ、笑顔に八重歯が覗いた。
「おう! ありがと、真ちゃん!」

 

「真ちゃんさーちょっと老けたんじゃね?」
 手羽先に器用にかぶりつきながら高尾は言った。
「当たり前だ、五年も経ったんだぞ。お前はあまり変わらないな」
「そお? あーやっぱここの手羽先うめーわ」
 高尾とは電話やメールなどで時々連絡は取り合っていたものの、お互い暇も合わなかったのでこの五年間一度も会っていない。あるいはお互い忙しいことを理由にあえて会わなかっただけかもしれないが。
「出せたみたいだな、結果」
「おーよ! ま、これがゴールじゃなくてようやくスタートラインなんだけどな。やっと本社で車の研究開発に携われる。真ちゃんは? 順調なの、研究。iPSやってんだっけ」
「ああ、順調だ。研究以外にも特許の申請だの論文投稿の準備だのいくらでも仕事がある状態だ」
「それは何より。緑間先生がノーベル賞取る日を楽しみにしてるからねオレ」
 高尾が家を出てから、緑間は博士課程に進み無事修了・卒業した。その後は教授コースに乗るべく大学でiPS細胞の研究を続けている。注目を浴びている分野なだけあって世界中で毎日のように新発見がなされている今、休んでいる暇などない。
 だが今日は高尾が帰ってくる特別な日だ。実験の片付けを教え子に頼んで早めに上がらせてもらったのだ。
「そーいや真ちゃん前言ってたカノジョどーなったの。告られて付き合ってたっていう」
「とうに別れた。クリスマスは仕事だと言ったら『私と細胞どっちが大事なの!?』とキレられてな」
「ブフォッ、何それ、ははははは! 私と細胞、って聞いたことねえよそんなの!」
 腹を抱えて笑う高尾とは対照的に緑間はむっすり顔でビールをぐいとあおった。
「細胞は生き物なのだよ! 土曜も日曜もクリスマスも世話をしてやらなければ、死んでしまって実験がおじゃんになるのだよ! そんなことも分からん女など願い下げだ」
「ぶはははは! やーでもオレちょっとその子に同情しちゃうわ、細胞に負けたらちょっとショックかも」
「ふん、クルマ作りのためにオレを置いて出て行った奴に言われたくはない」
「だってオレ男だもん。夢を追っかけない男なんてカッコ悪いっしょ」
「まあな。だからオレも毎日飽きもせずに仕事してるわけだからな」
「へへ、オレ真ちゃんのそーゆーとこ好きよ」
「言ってろ」
 鼻で笑った緑間だったがその表情はまんざらでもない。秀徳高校でバスケに明け暮れていた頃から、高尾は練習熱心な緑間が好きだったし、緑間もまたたゆまぬ努力を続ける高尾が好きだった。バスケが仕事に変わった今でもそれは変わっていない。結局のところ、仕事熱心な互いが好きなのだ。
「なんかさ、話す話題も仕事のことばっかになってきて、オレらも歳とったなーって感じだよね」
「実際もう三十手前なんだ。そのうち抜け毛だのメタボだのの話も始まるのだよ」
「うわーオレすでにヤバイかもー!」
 昔はなかったはずの贅肉をつまむ高尾が可笑しくて。そして年々移ろってゆく話題の中にも変わらず存在している安心感が心地良くて、緑間は何年も忘れていたような優しいまなざしで高尾を眺めた。
 そんな他愛もない話であっという間に時間が過ぎていった。

 

 三時間が経過した頃、緑間はふと腕時計に目をやった。
「高尾、時間は大丈夫なのか。ここからだとお前の実家までだいぶかかるだろう、終電は?」
 すると緑間の心配をよそに高尾は飄々と答える。
「ん、へーきへーき。なんたって今日は秘密道具があるかんね!」
「秘密道具……?」
 途端に緑間の眉間に皺が寄る。こういう時、たいてい高尾はしょうもないことを企んでいるのだ。
 訝る緑間の前で高尾は横に置いていたバックパックの蓋を開けた。すると、そこに見えたのはどうにも見覚えのあるヴィヴィッドなオレンジ色の服地。
「まさかそれは……」
「じゃーん! お泊りセット~~~!」
 バッ、と得意気に高尾が広げて見せたのは、忘れようもない秀徳バスケ部の長袖ジャージだったのだ。
「引っ越しの片付けしてたらこれ出てきてさあ。今日の寝間着にしようと思って持ってきたわけ」
 どう、偉い? 小型犬のようにキラキラ目を輝かせ、言わずともそう伝わってくる。緑間はこめかみを押さえた。
「……いつ、ウチに泊まって行っていいと言ったのだよ」
「え? いいじゃん一日くらい。どーせ実家に引っ越しの荷物届くのは明日なのだよ」
「真似をするな! まったく、それならそうと早く言え」
 別に部屋はいつも片付けてあるから客が来るぶんには構わない。ただ布団の上に畳んである緑間の寝間着――目の前にあるのと同じ、オレンジ色のジャージを見たら、きっと高尾は腹を抱えて笑うに違いない。
 偶然さえも一致するこの状況を、運命なのだよと言わずして何と言おう。何年経っても色褪せないこの絆を、改めて愛おしいと、緑間は思った。

 

「へえー、真ちゃんこんなとこ住んでんだー」
 閑静な住宅街の一角にあるアパートを見上げて高尾は少し羨むように言った。
「オレなんか福岡の社員寮が超狭くてさ、大変だったよ」
「ふん、ここだって中に入ってしまえば単なる狭い六畳間だ」
「えっ、真ちゃんが六畳!? ……巨人が蟻の巣に住んでるみたい、ひひひ」
「うるさい、オレはベッドと机さえ置ければいいのだよ!」
 つい大きな声になりかけた自分のことは棚に上げ、緑間は「こんな時間に立ち話をしていては近所迷惑だろう、高尾」と高尾を外階段の上に急かした。
 二〇五号室の前で立ち止まり、鍵穴に鍵を差し込む。この鍵を回せば、ドアが開く。そうすると一歩先は緑間の部屋だ。
 緑間はふと、そこに高尾を招くということがどういうことか考える。
 五年前まで高尾とは恋人関係だった。男だとか女だとかを超越して、緑間という人間と高尾という人間が互いに敬い、愛し合っていた。その関係は互いの夢と仕事のため一旦解消したことになるが、果たして今でもまだ有効なのだろうか。居酒屋の会話では結局現在双方ともに独り身だと分かったが、その場合どうなるのだろう。
 ちらりと高尾に目をやると、「何? どったの真ちゃん」と目だけで無邪気な反応を返してきた。
 さすがにもう時効か――緑間は何かを期待してしまったらしい自分を胸中で鼻で笑った。
「靴は揃えろよ」
「はいはい、何か懐かしいなそれ。何回も言われて耳タコだった気がする」
「その割にはいつも脱ぎ散らかしていたがな」
 がちゃり、と鍵を回して緑間はドアを開けた。そこそこに靴を揃えて「おじゃましまーっす」と高尾がさっさと入っていく。緑間が電気のスイッチを入れると、廊下を見回して高尾は楽しそうに声を上げた。
「へー、けっこういいじゃん。オレたちが住んでたボロアパートと雲泥の差! あっすげえ、コンロがIHのやつだ」
「あまりうろちょろするな」
「わードラム式洗濯機かよ、セレブー! トイレ、ウォシュレットだし!」
 まるで住宅展示場にでも来たかのような勢いで手当たり次第に扉を開けては感想を述べる高尾に緑間は溜息をつく。
「高尾、落ち着くのだよ」
「だってさあ、オレが住んでた社員寮なんて風呂トイレ共用だったんだぜ? 久々にこんな近代的なトコに来たら色々見たくなるじゃない」
 そう言って高尾は嬉々として次の扉のドアノブに手を掛けた。
 が、その扉を開けた瞬間。
「――……っ」
 目の前にあるのは緑間の部屋。何の変哲もない六畳間に、特注品か海外製であろう尺の長いベッドと、ビジネスデスクと、薄型テレビが並んでいる。
 ただそれだけなのに、高尾は言葉を失って固まった。
「高尾?」
「……がする」
 先ほどまでの調子の良さなどどこかに忘れてきた表情で高尾は呆然と呟いた。
「真ちゃんの匂いがする……」
 そして、ゆっくりと斜め上を、驚く緑間の顔を見上げる。互いに息を呑んで見つめ合ったまま、数秒が経った。一緒に住んでいた頃を思い出すには充分な、数秒が。
 先に沈黙を破ったのは高尾だった。
「ははっ……オレさ、もう五年も経ったんだし、大丈夫だと思ってたんだぜ? けど……」
 高尾はくしゃっと笑った。
「けど、やっぱダメみたいだ」
「――!」
 今にも泣き出しそうなその笑顔が、緑間の胸に突き刺さる。と同時に、つい今しがた自分が忘れようとしたばかりのかすかな期待が顔をもたげる。それは一瞬で身体じゅうに広がり、高尾と分かれる前の自我をいとも簡単に取り戻した。
「高尾」
「真ちゃん……!」
 緑間が高尾を引き寄せるのと、高尾が緑間の胸に飛び込むのとどちらが早かったか――ふたりは頭で考えるよりも先に、きつく、強く、抱き締め合っていた。
 五年間離れていたのに、あの頃と変わらぬ匂い、ぬくもり。今までの空白を必死で補うように、互いの身体に顔を埋め、その存在が今腕の中にあることを噛み締めた。
「真ちゃ……、オレ、すげー、すっげえ、寂しかっ……!」
「ああ、オレもだ」
 気付けば高尾の肩が嗚咽に合わせて震えている。緑間が少し身体を離して高尾の顔を覗きこむと、高尾はまつ毛に雫を載せたまま上目遣いで見上げた。
「……おかえり、高尾」
 緑間のその一言で、不安に揺れていた高尾の瞳が、雲が切れた青空のように輝きを取り戻す。
「ただいま、真ちゃん……!」
 ふたりに笑顔がはじけた。
 再びぎゅっと抱き締め合うと、緑間が力任せに遠慮無く抱き締めてくるものだから高尾は「痛い、痛いってば」と子どものようにケラケラ笑った。
 泣き笑いでくしゃくしゃの高尾の頬をぶに、とつまんで緑間はくっくっと喉で笑う。
「ぶさいくなのだよ、高尾」
「うるひゃい」
「ははは」
 幾度となく夢に見た、高尾しか知らない緑間の優しい笑顔がすぐそこにある。だけどもう夢じゃないのだとつままれた頬が教えてくれている。
「高尾」
「なーに、真ちゃん」
「一緒に暮らそう」
 いっしょに、くらそう。
 この言葉に、ふたりが望んだすべてが詰まっている。
 この日一番の笑顔の花が咲いた瞬間だった。

 

「……で、何だってこんな夜中に出かけるわけ?」
「住宅情報誌を買いに行くに決まっているのだよ、コンビニなら開いているだろう」
「明日で良くねえ? もう日付が変わるぜ?」
「古人は言った、善は急げと。さあ行くぞ高尾!」
「へーへー、お前が相変わらずで嬉しいよ、緑間」
 やれやれと肩をすくめながらも靴を履く高尾。と、ふいに頭上が暗くなったので顔を上げると、横には玄関の壁に手をついた緑間の腕があり、目の前では常磐色の前髪がさらりと揺れ黒縁眼鏡が迫っていた。
 真ちゃん、と呼ぶ間もなく、唇が塞がれた。
 普段の高尾ならば「こんなとこでいきなりかよ」と笑うだろう。だがこの時ばかりは言葉などなかった。驚くことも茶化すことも忘れて緑間に応え、唇を重ねていた。
 五年越しのキス。それは、初めてした時の胸が焦げるようなキスとも、あの日の別れ際のかすかな余韻すら残すことを許さないキスともまったく違うものだった。長い間閉じ込めていた熱情が迸り、求め合い、それでいて限りなく優しい。
 愛しさを溶かし合いながら緑間と高尾は確信した。
 何が起ころうとも、どれだけの時が流れようとも。
帰るべき場所はここだ――と。

 ふたりの幸せが、再び時を刻み始めた。

 

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