イグニスにおんぶしてもらう話

ノクトをおんぶして歩くうちに少年時代を思い出すイグニス。やんちゃの盛りを極めていたノクトを初めて叱ったあの日も、こうしてノクトを背負って歩いたものだった。甘くてほろ苦い思い出話です。うっすらイグノク。


 鼓動のようなリズムを刻む心地良い揺れと、優しいあたたかさ。しばし甘いまどろみに包まれていたノクティスは、パキン、と小枝を踏み折る音で現実へと引き戻された。
「ん……あれ……?」
「目が覚めたか、ノクト」
 聞き慣れたイグニスの声は存外近くから――右耳のすぐ前から聞こえてきた。目覚めたばかりのぼんやりした頭ではあったが、自分が置かれている現状を把握するのにさほど時間は要さなかった。
 ノクティスは、どういうわけか、まったくどういうわけだか、イグニスに『背負われて』森の小径を進んでいた。心地良い揺れだと思ったのはイグニスの歩行の弾み、優しいあたたかさだと感じたのはイグニスの背中の体温だったのだ。
「……は? ちょ、なっ、なんで!?」
「ノクト、暴れるな。落ちるぞ」
「なんでお前におぶわれてんだ、ガキじゃねーんだぞ!?」
 いい歳しておんぶされているという気恥ずかしさが頭の先まで瞬時に昇り、ノクティスはイグニスの背と腕から逃れようともがいた。が、突然視界がぐらりと回るように歪み、ノクティスは振り上げていた手を慌てて引き戻し、イグニスの肩を掴んだ。
「う……!」
「ノクト? どうした、どこか痛むのか?」
「いや……なんかすげーめまいが……」
 言いながらノクティスは「ああ、これはもしかして」と心当たりに行き着いた。このめまいの感覚、体のだるさは初めてのことではない。
「なあ、さっきの戦闘の後オレどうしたっけ?」
「覚えていないのか?」
「全然」
 今朝、食事処で野獣のハントを請け負ったのは覚えている。そして向かった先にいたターゲットが想像を超える巨体で、斬っても斬っても倒れない強靭なタフネスの持ち主だった。ノクティスは奮戦し、長時間の戦闘の末どうにか勝利したが、そこから今までの記憶がすっぽり抜け落ちている。
 イグニスはノクティスを背負って歩きながら、その間のことを説明した。
「あの後お前は突然倒れてその場で眠り始めたんだ。おそらくファントムソードの使いすぎだろう」
「あー……やっぱそうか」
 予想は的中していた。ファントムソードを使用した翌朝は、寝たはずなのにまるで鉛のように体が重く起きられないことも多い。今あるのはその感覚だった。
「そういや途中から使いまくってた気がするわー。あんまり敵が固いからムカついてさあ」
「ハァ……。強力なのは分かるが、使いすぎるなと言ってあるだろう。……オレは一瞬お前が死んだかと思って肝を冷やしたぞ」
「悪ぃ悪ぃ。次から気をつけるわ」
「まったく……あまり心配させないでくれ」
 イグニスの憮然とした溜息からは、いかに彼がノクティスのことを心配し、またこうして目覚めていかに安心したかが如実に滲み出ている。おそらくノクティスが倒れたときなど普段冷静な彼らしくもなく右往左往して取り乱したに違いない。
「グラディオとプロンプトも心配していたぞ」
「今あいつらは?」
「先行して敵を片付けてくれている。標まで少し距離があるからな」
「へえ、それで静かなわけか」
 よく喋る二人がいない静けさと、野獣の唸り声が聞こえない静けさ。二重の意味を込めてノクティスは言った。
 イグニスは落ち葉や枯れ枝を踏み分けながら、ノクティスを背負って木々の間を歩いてゆく。そしてふいに、「こうしていると」とフッと笑った。
「あ?」
「こうしていると、昔を思い出すな」
「昔……?」
「ノクトがまだ小さかった頃だ。あのときも、オレはこうしてお前を背負って森を歩いていたな」
 イグニスは何かいとおしいものを見つめるように目を細めたが、対照的にノクティスは眉をしかめて、
「覚えてねーよ、ンなガキの頃の話」
 と一蹴した。
「そうか? オレはよく覚えているぞ。確かノクトは小学校に上がる前だった。思えば当時から勉強嫌いだったんだろうな、お前はよく勉強部屋を抜け出して……」
「イグニス……それ、やめねぇ? どーせろくな話じゃねーだろ」
「まあ、いいじゃないか。どうせ標までまだ三十分近くかかるんだ、思い出話のひとつでも」
 げんなりと項垂れるノクティスを背に、イグニスは懐かしい記憶を紐解いていった。

   ■   ■   ■

 それはイグニスが眼鏡を掛けるよりも前、まだノクティスに敬語を使用していた頃の話。
 ノクティスは齢五歳。国王の一人息子ということでそれはもう甘やかされて育ったノクティス少年はやんちゃの盛りを極めていた。
 側付き見習いとしてノクティスの勉強を見てやるように命じられていたイグニスは、王城の勉強部屋でノクティスに優しく言った。
「ノクティス王子、あと少しで終わりです」
「ええー、もうつかれたよー。すうじもひらがなもあきちゃった」
 就学前児童用の学習帳の上に突っ伏して、ノクティスはぶうぶうと文句を言った。机と椅子が一流の技師に作らせたひときわ大きい芸術品なので、まるで小さなノクティスが宝の山に埋もれているように見える。
「しかし、今日のぶんがまだ残っていますが……」
「やだ」
「休憩はさっきとったばかりですし……」
「やだもん」
「せめてもう1ページだけでも……」
「やだったらやだ」
 ぷう、と頬を膨らせてノクティスは徹底抗戦の構えを示した。
 我儘王子はこうなったらてこでも動かない。イグニスは困り果て、自身もまだ小学生だというのにまるで老執事のように眉間に皺を刻んだ。
 するとその困り顔を見たノクティスは、少しばかりばつが悪そうに目を逸らし、頬を膨らせるのをやめた。我儘は言いたいが、イグニスにそのような顔を向けられるのは嫌らしい。代わりに飛び出したのが彼いわく『名案』だった。
「いいことおもいついた!」
「えっ?」
 ノクティスはばっと顔を上げて言った。
「ねえイグニス、おんしつでかくれんぼしない?」
「かくれんぼ……? 勉強が終わってからにしませんか」
「だからぁ! ちょっとあそんでくるだけ! かくれんぼおわったら、しゅくだいがんばる!」
 キブンテンカンってやつだよ、とノクティスは最近聞きかじった言葉を得意げに披露した。
「いや、しかし……」
 イグニスは迷った。勉強好きの自分にも、時々気分転換をしたくなる気持ちは分かる。だがイグニスにはノクティスに勉強をさせる義務がある。ここは厳しく出るべきではないだろうか。
 だが小さなノクティスに「あとでちゃんとやるから、ねっ?」とキラキラ光る純朴な瞳で覗き込まれると、喉まで出掛けていた厳しい言葉は煙が消えるようにゆるゆると撤退してしまった。
 と同時にイグニスの頭にも、要は宿題を終えさせればよいのだからそのためならば少々気分転換に遊びに出ても構わないのではないか、という拡大解釈が浮かんでくる。
 そうして、甘い対応をしてしまうのだ。
「……仕方がないですね。少しだけですよ」
「やったぁ! 行こっ、イグニス!」
 ノクティスは小躍りし、勉強の疲れはどこへやら、イグニスのジャケットをぐいぐい引っ張って廊下へと飛び出した。そして温室のほうへと駆け出してゆく。
「イグニス、はやく、はやく!」
「王子、廊下を走ってはいけません!」
 ノクティスに引っ張られて蹴つまづきそうになりながらも、イグニスは自分は走らないようにできるだけ早足で廊下を進んだ。
 角を曲がり温室へと続く大きなガラス扉が見えてくると、ノクティスはわあっと歓声を上げていっそう歩を早めた。
「むー!」
 五歳児には重すぎる扉をノクティスは力いっぱいに押し、自力で開ける。勉強は嫌いだったが、遊ぶことに関しては寸分の努力も惜しまない子どもだった。
 温室に出ると、城内では見られないような極彩色の花を持つ植物が二人を出迎えた。ガラス張りになっているここでは大きいものから小さいものまで様々な植物が生い茂っている。ノクティスは特別花が好きな子どもではなかったが、さながら色鮮やかな迷宮のようでお気に入りの遊び場であった。
「イグニス! ほら、ぼくが三十かぞえるから、かくれて!」
「分かりました。では」
 ノクティスのリクエストに従ってイグニスは手頃な隠れ場所を探し始めた。簡単すぎてもいけない、難しすぎてもいけない。たかがかくれんぼとはいえ、年下の王子相手ではなかなか大変な遊びである。
「じゅーさん、じゅーし、じゅーご……」
 以前はつっかえがちだった二桁の数字もここのところはすらすらと数えられる。王子も成長したものだとイグニスは少しばかり胸が熱くなる思いがした。
「もーいいかーい?」
「いいですよー」
 イグニスは温室の隅に群生している灌木の陰に隠れて返事をした。
「どこかな~どこかな~」
 鼻歌のような調子をつけてノクティスが少しずつこちらへ近づいてくる。自分の好きなことをしているときは本当に機嫌が良い。
 しかし、イグニスのすぐ近くまで来たところでノクティスの足音が止まった。そしてややあってから、
「イグニス! ちょっと来て!」
 とひそひそ話をするような吐息混じりの声を大にしてイグニスを呼んだ。
 その手には乗らないぞ、とイグニスは警戒したが、ノクティスが何度も呼ぶので仕方なく顔を出してみると、ノクティスはガラス張りの壁の根元部分を目を皿にして凝視していた。
「王子?」
「ここ、ここ! 見て!」
 ノクティスは興奮を隠し切れない様子でなおも内緒話の声を精一杯張り上げる。どうやら鬼ごっこどころではないらしい。
 ノクティスに促されてイグニスもガラス際にしゃがんでみると、地面に沿って横一列に並んでいるすべり出し窓のうちのひとつが開いていた。次にノクティスが言う台詞の想像がついてイグニスは眉をひそめた。
「ねえ、ここから出てみようよ!」
 悪い予感は的中した。絶対にそう来るだろうと思ったのだ。
「なりません、王子。勝手に外に出ては叱られますよ」
「だいじょうぶだよ、すぐかえるもん」
「しかし外は危険かもしれないでしょう」
「イグニスがいればへいきでしょ!」
「平気、って……」
 信頼されているのは嬉しいが、今はそういう問題ではない。しかしすでにノクティスは上半身を窓の隙間に滑り込ませていて、あっという間に外へと脱出してしまった。
「お、お待ち下さい王子! ……もう、仕方がないな!」
 こうなっては追うより他にない。イグニスもまた窓から外へと這い出た。
 温室の外は殺風景な通路になっていて、人の気配がしない。どうやら普段通るような場所ではないようだ。
「ねえ、あれ」
 ノクティスにジャケットの裾を引っ張られてそちらに向くと、地下へと向かう階段のようなものが見えた。
「いってみよう!」
「えっ、お待ち下さい、勝手に入っては……!」
 イグニスの静止もむなしく、ノクティスは風のように階段を駆け下りてゆく。慌ててイグニスも追いかけた。
 地上から急に地下に潜ったので一瞬目がくらむ。たっぷり数秒かかってやっと目が暗闇に慣れてくると、そこは狭い地下道になっていることが分かった。
「……なんだろうね、これ……」
 コンクリートの壁や天井を三六〇度ぐるりと見回してノクティスが言う。
「何でしょうね……」
 イグニスも同じ言葉しか出てこない。地下道には、金属のパイプのようなものがまるで木の根っこのようにうねうねと張り巡っていた。太いものも細いものもある。何だかよくわからない機械のようなものもある。
「イグニスにもわからないことってあるんだ?」
「そりゃあ、もちろんあります。まあおそらく、電気やガスの配管だと思いますが」
「ハイカン?」
「お城の中で灯りをつけたりお湯を沸かしたりするでしょう? その力を、こうして地下で運んでくれているんですよ」
「へえー! すごいね、でんきってかってにつくんじゃないんだ」
「そうです。だから、触ってはいけませんよ。もし壊れたりすれば大変ですからね」
「う、うん。わかった。おしろがまっくらになったら、みんなこまるもんね」
 電気の消えた暗い城内で父や兵士たちが右往左往しているところを想像したノクティスはぶるっと身を震わせ、神妙な顔をして頷いた。そして決して機械類に触れないようにそろそろと地下道を進んでいった。
 と、そのとき、頭上からゴウッと唸るような音が降ってきてノクティスは思わず耳を押さえた。
「ひゃあ!」
「王子!」
 イグニスは咄嗟にノクティスを守るように引き寄せた。天井を見てみると、そこには格子状の金属網が嵌っていて、その向こうに日光が見えた。
 そしてまたあの唸るような音がしたと同時に、日光が一瞬遮られた。
「なるほど……王子、大丈夫ですよ。この上を車が走っただけです」
「くるま……?」
 車が頭上を通るなど想像もしたことのないノクティスはきょとんと腑に落ちない顔をしたが、自分が地下道にいることを思い出し、合点がいったようにうんうんと頷いた。
「そっか! ここはどうろのしたなんだね!」
 危険がないことを悟って俄然強気になったノクティスは、イグニスの手を離れ、再びずんずんと地下道を進み始めた。
「王子、そろそろ戻りませんか」
「ええっ、いやだよ。イグニスはここがどこにつながってるのか気にならないの?」
「まあ、多少は気になりますが……」
「じゃあいこっ! ほら、あっちにでぐちがみえるよ!」
「あっ、待っ……」
 ついノクティスのペースに巻き込まれてイグニスはまたも折れてしまった。渋々ノクティスについていくと、地下道は上り階段に変わり、やがて視界が開けた。
 暗くも眩しくもないそこは、背の高い木々が地面に陰を作る林の中だった。
「どこだろう、ここ」
 ノクティスはきょろきょろと辺りを見回した。生い茂る木々や下草の間には遊歩道のようなものも見える。木々の向こうにはフェンスが、そしてさらにずっと遠くには高層ビル群が小さく見えた。
 そこは間違いなく城外だった。おそらく、城の裏手を囲んでいる森林公園だろう。そのことに気付いたとき、イグニスの背筋にゾッと不安が走った。まずい。さすがにこれはまずい。
「王子、本当にもう戻りましょう。ここは城の外ですよ」
 しかしその言葉はかえって油を注いでしまったらしく、ノクティスは一層目を輝かせ始めた。
「おしろのそと!? すごいや!」
 そう言うやいなや木々の間を駆け回り始めたではないか。
「王子! そんなに走っては……!」
 公園、と名が付いているものの、アスファルトなどで固められた道とはわけが違う。林の中は根につまづくこともあれば落ち葉で滑ることもあるだろう。イグニスははらはらしながらノクティスを追いかけた。
「へいきだよ! ほらほら」
 ノクティスは自分の背丈よりも高い位置にある枝にぴょんと跳ねて掴まると、二、三度足をぶらぶら揺らしてから跳び下りた。
「危険です! 枝が折れたらどうするんですか!」
「もう、イグニスはうるさいなあ!」
 ノクティスはイグニスに向かって舌をべっと出した。そしてまたいずこかへ駆け出してゆく。翻弄されるイグニスはたまったものではない。
 その後もノクティスはフェンスをよじ登ろうとするわ、急勾配の斜面を駆け下りるわ、小川の縁ぎりぎりまで近づいて水面を覗き込むわ、終始イグニスの肝を冷やすはしゃぎようだった。
 そのたびにイグニスは静止を試みる。
「王子、危ないですから本当におやめください!」
 だが我儘に慣れきっているノクティス王子の耳には届かなかった。
 そして、ついに事故が起きてしまった。
「イグニスー! 見て見て! なにか実がなってるよ!」
 はしゃぎ回って汗だくの顔をノクティスは一本の果樹へと向けていた。その枝の先にはかわいらしい赤い実が葡萄のように鈴なりになっている。
 次のノクティスの行動など、予想するまでもない。
「待っ……!」
 必死で伸ばしたイグニスの手は、すんでのところでノクティスを掴むことができなかった。
 ノクティスは果樹の幹にしがみつき、木の出っ張りに手足を掛けながら器用に登っていく。本人は勇敢この上ないつもりなのだろうが、イグニスはノクティスが上に行けば行くほど顔面蒼白になっていった。
「ううん、もうちょっと……!」
 そしてノクティスが枝にまたがり、果実へと手を伸ばしたとき。
 バキィッ!
 枝がまっぷたつに折れるのを、イグニスは目を見開き、まるでスローモーションのように目の当たりにした。
 危ない――そう叫んで必死に駆け寄ろうとするのに、足が、手が、届かない。折れた枝と一緒に、呆然としたノクティスが地面へと落下してゆく。
「王子ーーーっ!!」
 イグニスが叫ぶと同時に、ノクティスは鈍い音を立てて地面とぶつかった。そしてそのまま斜めになった斜面を転がり落ちていった。
「王子! 王子っ!」
 王子の姿が見えない。声も聞こえない。王子は、無事なのか。もし無事じゃなかったら……?
 気が動転したイグニスは、地面の落ち葉に滑って転びそうになりながら斜面の下へと急行した。
 幸い、斜面は一メートルほどの短いもので、ノクティスの姿はすぐに確認できた。だが、下草に突っ伏したノクティスが、ぴくりとも動かない。
「王子!?」
 もしや、最悪の事態に――
 そんな不安が爆発しそうになったとき。
 イグニスの声を聞いて我に返ったのだろう、ノクティスはまるで何かを思い出したかのように、ぴょこ、と顔を上げた。
「イグニス……?」
「王子っ!」
 良かった、生きている。それだけでもうイグニスは全身が脱力しそうなほどに安堵した。急いで駆けつけノクティスを助け起こす。
「大丈夫ですか!?」
「……イグニス、ぼく……」
 自分の身に何が起こったのか把握できていないノクティスは視線をさまよわせた。
「王子、あなたは木から落ちたんですよ。お怪我はありませんか?」
 するとノクティスはハッとして、その双眸に大きな水の粒が盛り上がった。状況を理解したら恐怖と痛みが実感となって襲ってきたのだ。
「う……」
 ああ、泣く。イグニスの胸がずきんと痛む。
「うっ、ううっ、うええええぇん!」
 ノクティスの青灰色の瞳から、ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙が止めどなくこぼれ落ちた。
「お、王子!? どこか痛むのですか?」
「ひっく、あ、あし、ひっく、うええええん」
 イグニスはノクティスが指差した右足の様子を診た。幸運にも、地面に落ち葉が厚く降り積もっていたことと長ズボンを履いていたおかげで目立った怪我はなかった。ちゃんと動かせるし、擦り傷もない。足首を痛がっているので軽く捻ったのかもしれなかった。
 何にせよ、大事には至らなかったようだ。イグニスは緊張のため狭まっていた息をはーっと吐き出し、胸を撫で下ろした。
「……大丈夫、帰ってお医者様に診てもらいましょう」
 するとノクティスはわあわあ泣きながらこれに抗議した。
「やだーっ! おいしゃ、きらいーー! うわあああん!」
 さすがにこれにはイグニスも閉口した。
 自分から勝手に城を抜け出して。再三の静止も聞かずに無茶をして。そのせいで怪我まで負って、なおも我儘を言う。わんわん喚くノクティスを前に、イグニスは途方に暮れた。
 周りは「しっかりした子だ」とイグニスを評価するが、イグニスとてまだ小学生である。苦渋はやがて、ちりちりとした苛立ちへと変わっていった。
 そして、ついにイグニスの手はぐずり続けるノクティスの両肩を強く掴んだ。
「いい加減にしてください!!」
 ノクティス相手に出したこともないような声だった。ノクティスの小さな身体がびくりと跳ね、ヒッ、と短く息を吸い込んで泣き声が喉の奥へ消える。
 イグニスはノクティスの目をまっすぐに見据え、思いの限りを吐き出した。
「何度も言ったでしょう! 危ないからやめよう、もう帰りましょう、って。なのに王子は僕の言うことなんか全部無視して、挙句の果てにケガまでして! その上医者も嫌ですって? 我儘を言わないでください、そんなの自業自得じゃないですか!」
 従者である立場も忘れ、イグニスは己の胸中をぶちまけた。
 イグニスが本気で怒った顔など見たこともなかったノクティスは、ただただ驚き気圧(けお)されて、涙で濡れた瞳を見開く。
「イグニス……ひっく、おこってる……」
「ええ、怒ってます!」
「ぼくがケガしたせいで、イグニスがしかられちゃうから……?」
「っ、違う! そんなんじゃありません!」
 イグニスは真っ向から否定した。
「え……?」
 ノクティスはその真意がまったく分からない様子で、しゃっくりをしながら眉を八の字にゆがめた。
 というのも、これまでに城内でやんちゃをしでかしたとき、侍従や兵士から「お待ち下さい王子、私が罰を受けてしまいます!」という台詞をしょっちゅう聞かされてきたからだ。
 自分に何かあれば侍従たちが叱られるらしい。侍従たちは叱られるのが嫌だから、ノクティスが我儘を言うと困る。そういった図式が、ノクティスの頭の中で理解されていた。
 だから、憤慨したようにイグニスに否定されて、ノクティスは混乱した。だったら、なぜイグニスはこんなにも怒っているんだろう、と。
 当惑しているノクティスに伝えるため、イグニスは自身の胸に手を当て、一語一語に魂を込めてノクティスに言った。
「僕のことなんかどうだっていい! 僕は、他の何よりも! 王子のことが心配なんです!!」
「えっ……」
 そしてイグニスは端正な顔をつらそうに歪め、声を震わせた。
「怪我が軽かったから良かったものの、打ちどころが悪かったらどうなっていたかわからないんですよ……王子にもしものことがあったら、僕は、僕は……っ」
「イグニス……」
 イグニスは、自身の立場を案じてではなく、ただただノクティスのことを想って怒った。ノクティスは、ようやくそれを理解した。と同時に、引っ込みかけていた涙がぼろぼろっと大きな粒となってこぼれ落ちた。自分がどれだけイグニスに心配を掛けて困らせたか、そしてどれだけイグニスが自分のことを気にかけてくれているか、悟ったのだった。
「ご……ごめんなさい、ぼく……」
 しおれた花のように小さくなって、ノクティスはうなだれた。
 しかし一度火のついたイグニスの気持ちも簡単には冷めやらない。唇を引き結んだまま緩めてくれないイグニスに、ノクティスは懸命に許しを請うた。
「こんどからちゃんということきくから……ねえ……」
「…………」
「ねえ、おこらないで……イグニス……ねえってばあ……!」
 苛立ちが完全に消えたわけではなかったが、すがりつくノクティスをこれ以上無視することはイグニスにとっても身を切られる思いだった。
 不安に怯えるノクティスの瞳はイグニスしか映していない。その健気(けなげ)さは、イグニスの胸をきゅうと切なく締め付けた。
 イグニスは一度深呼吸をし、気持ちを落ち着けてから、ノクティスに向き直った。
「……もうこんな危ないことはしませんか?」
「うん」
「約束ですよ」
「うん、やくそく」
 ノクティスはこくりと頷いた。
「じゃあ、指切りしましょう」
「ゆびきり?」
 しゃっくりをしながら聞き返すノクティスにイグニスは小指を立ててみせた。
「父の故郷の風習で、何か約束をするときに小指を絡めるんです。こうして……」
 指切りを知らないノクティスの手を取り、小指同士を引っ掛け合ってイグニスは続ける。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます。指切った!」
 それを聞いたノクティスはぎょっとして全身をこわばらせた。
「えっ、ぼく、うそついたらハリセンボンなの……? サボテンダーたべなきゃいけないの……!?」
 ノクティスのかわいらしい発想に思わずぷっと吹き出したイグニスは、ようやく笑顔を見せた。
「あっははは。違いますよ、これはものの例えです。嘘をついたらカンカンに怒るぞ、という意味ですよ」
「な、なぁんだ……びっくりしたー……。でも、ぼく、ちゃんとやくそくまもるよ。イグニスがおこるの、いやだもん」
「王子……」
 完全に自分を信頼して見上げてくるノクティスの無垢な顔。イグニスはたまらず小さなノクティスを抱き締めた。
「さあ、帰りましょう」
「うんっ!」
 ノクティスも涙を笑顔に変え、やわらかい頬を寄せてイグニスにぎゅっとしがみついた。

 

 陽が傾き茜色に染まる空の下、イグニスは足を捻挫したノクティスを背負ってゆっくりと歩く。
 ふたりでひとつの細長い影を連れて、まるで仲の良い兄弟のように家路を辿る。
 イグニスの背中で揺られているノクティスがぽそぽそと何か話しかけると、イグニスは一瞬戸惑いを見せたのち、やがて幸せを噛み締めるように微笑んだ。

 

「ねえイグニス。ぼくをきらいになった……?」
「嫌いになるわけないでしょう」
「じゃあ、ぼくのことすき?」
「……はい、好きですよ」

   ■   ■   ■

「あの後さぁ、二人でめっちゃくちゃ叱られたよなー! イグニスは特に」
 大人になったイグニスの背におぶわれて、大人になったノクティスはケラケラと笑った。
「しっかり覚えているじゃないか。忘れたんじゃなかったのか?」
「え? あー……そんなこと言ったっけ」
 しらばっくれるノクティスに、イグニスは眉根を寄せてため息をついた。
 ノクティスにしてみれば忘れたくても忘れようがない記憶だった。それほどまでに、初めてイグニスに声を荒げて怒られたあの日のことは鮮烈に心に刻まれていた。
 と、そこでノクティスの脳裏にとある悪戯心がひらめいた。
 イグニスにの背の上から耳元に口を寄せ、意地悪そうに囁く。
「イグニス、オレのこと好き?」
 イグニスは怖いくらいに表情ひとつ変えず答えた。
「何を言わせるつもりだ。落とすぞ」
「落とす、って! ひっでえ、せめて『下ろす』だろ!」
 にべもない返事をするイグニスに、ノクティスは盛大に落胆した。せめて冗談のひとつでも言えよ、と内心ぶうたれてそっぽを向く。
 が、その顔はふいに届いたイグニスの声によってすぐにまた引き戻されることになる。
「……だ」
「え?」
「好きだ、ノクト」
 イグニスは静かに言った、遠いあの日と同じ言葉を。
 ノクティスは一瞬イグニスが何を言っているのか飲み込めず、しばし間の抜けた呆け顔を晒した後、突沸する湯のような勢いで耳まで赤くなった。自分から振っておいて、いざ期待通りの答えが返ってくると、自分でも理解しがたいほどにどうしていいかわからなくなったのだ。
「……あっ、お、おう!?」
 やっとのことでほぼ内容のない相槌を返す。言いながら、何が「おう」なんだ、と顔を覆いたくなった。今イグニスがこちらを向けないのが心底ありがたい。
 だが、動揺の初動がおさまると、次に湧き上がってきたのはなんともいえない多幸感だった。むずがゆいような、くすぐったいような、そわそわする気持ちがじわじわと五臓六腑に染み渡ってゆく。
「満足か?」
 微苦笑して問うてくるイグニスに、ノクティスは照れくさそうにはにかんで頷いた。
「うん。へへへ……」
 珍しく素直にノクティスが答えると、イグニスもまた満足気に眼鏡の奥の瞳を細めた。
 そしてまたしばらく森の小径を進んでから、イグニスは背に負ったノクティスに尋ねた。
「そろそろ自分で歩くか? もうだいぶ目も覚めただろう」
「そーだな……」
 言われてみれば昔語りの途中でとうに目は覚めている。体力もだいぶ回復した。仮にそうでなくても、いい歳をしておんぶをされるなどという羞恥行動をとるよりは無理をしてでも自力で歩くほうを選びたい。
 が、気持ちというのは朱にも藍にも染まるもの。ノクティスは悪戯っぽい笑みを浮かべ、いかにもしらじらしく声を上げた。
「あーやっぱダメ、だりぃな~ねみぃな~! 全っ然歩けそうにねえわー!」
 それが大袈裟な嘘だとわかっているイグニスも、まんざらでもない口調で答える。
「まったく……仕方がないな」
「そーそー、しょーがねえの。なっ!」
 少しだけ心が子ども返りしたノクティスは、甘えついでとばかりにイグニスの首元にぎゅうとしがみついた。
 鼻を寄せると、イグニスの匂いがした。あの日と変わらない、大好きだった匂いが。転んで怪我をした日も、父に叱られた日も、あの匂いに包まれて「大丈夫」と頭を撫でられると安心して眠ることができた。
 大人になった今は、それとはまた違った色も鮮やかに混じる。それはまるで、温室の緑の中に咲く真紅の花のようにあでやかで艷やかな色香を持つ、蠱惑的な感情だった。
「イグニス」
「何だ?」
「……何でもねー!」
 ノクティスはイグニスの首筋に顔を埋め、つかの間の甘酸っぱい幸せを思い切り堪能した。

 

おしまい

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