敬語なんかやめてくれ

突然イグニスが敬語で話すようになってしまった――他人行儀なイグニスに戸惑い、傷付くノクト。
苦い話ですが仲直りの後は甘えノクトと甘やかしイグニスのハッピーエンドです。うっすらイグノク。


 『狐につままれたような』――現代文のテストの答案に書くためだけに覚えたこの慣用句を現実の我が身になぞらえたのは、ノクティスの十七年の人生でこれが初めてだった。
 高校二年のとある冬の日、北風吹きすさぶ通学路から肩を震わせながら帰ってくると、自宅マンションの上がり框(がまち)でイグニスが出迎えてくれた。
 イグニスには合鍵を渡してあるからこのこと自体は別に珍しくも何ともない。
 ただ。
「お帰りなさいませ、ノクティス様」
「……お? おう」
 この日は、何かが決定的に違っていた。
「お鞄をお持ちいたします」
「はぁ? いいよ、自分で持つし」
「では、夕食にいたしますか。それとも先にお風呂になさいますか」
「え、あ、……メシ、がいいけど」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 きっちり九十度に腰を折って礼をしてからキッチンへと消えてゆくイグニスの背を見送りながら、ノクティスはその場に呆然と立ち尽くす。
「……何だありゃあ……?」
 堅苦しい敬語を使用し、まるで王侯貴族に接するかのようにうやうやしい態度を取るイグニス。いや、確かに自分も王子ではあるけれども。少なくともイグニスの中ではフォーマル応対の圏外にいたはずだ。
 さっぱりわけがわからず、ノクティスは首を傾げたまましばらくその場を動けない。なるほど、授業で習った『狐につままれたような』ってのはこんな感覚か。ノクティスは呆然のあまり他人事のようにそんなことを思った。
 だが、狐につままれる程度では終わらなかったのが今回の事件だった。

 

「はあぁ~~~」
 がやがやと教室内がにぎやかにざわめく昼休み。休憩時間を満喫するクラスメイトたちとは対照的に、ノクティスは机に突っ伏して深いため息をついた。
「ノクト、元気ないね? どうかした?」
 向かいの椅子に反対方向から腰掛けたプロンプトが尋ねてくる。
「どうもこうもねえよぉ……」
 うんざりした様子で眉をしかめ、ノクティスは力なく顔だけを上げる。
「イグニスがおかしいんだよ。やたら敬語使ってくるし、『ノクティス様』なんて呼んでくるし。やりづれーったらねえわ」
「ええっ、あの人ノクトにはタメ語だったよね!?」
「ああ。けど、もう三日目だぜ? いい加減にしてくんねーかなぁ……」
 そう、イグニスの奇妙な変化はあの日だけにとどまらなかったのだ。あれから三日、イグニスはなおも敬語を使い、ノクティスにとっては過剰すぎる礼節を尽くしてくる。
 朝にはおはようございますノクティス様、コーヒーはいかがいたしますか、行ってらっしゃいませ、夜にはお帰りなさいませ、失礼いたしますノクティス様。ノクティス様に始まりノクティス様に終わる日々。
 それがあまりにも居心地が悪くて、ノクティスの精神力は鉋(かんな)で削られてゆく木材のごとくすり減り、フラストレーションは右肩上がりに蓄積していった。
「何かあったのかって聞いても何もねえって言うし。グラディオに聞いたら別にいつも通りだったって言うし。どうもオレだけらしいんだよ、そういう態度取られてるの」
「うわあ、何それ……しんどいね……」
「だろ? マジ、きっついわー……」
 胃のあたりを押さえ、ノクトは机にぐったりとへばりついた。
 『ストレスから来る胃の痛みに』なんていう胃薬のCMをテレビで見るたび、おっさんは大変だなあなどと思っていたが、これがまさにそうなのかもしれない。胃痛はおっさんのものだと勝手に決めつけていたノクティスは、少しだけおっさんに謝りたくなった。

 

 そしてその日の夜も、イグニスはノクティスのマンションにやって来て一通りの家事をこなしていった。
「それではノクティス様、夜分にお邪魔いたしました」
 またあの直角のお辞儀をして、イグニスは馬鹿丁寧な挨拶をした。先日は気が付かなかったが、スリーピースのスーツの首元にはネクタイまできちんと締められていた。
 以前は仕事の直後であってもノクティスの部屋を訪れるときにはノーネクタイだったのに、と思うとその変化が視覚にまでダメージを与えてきてノクティスは目を背けてしまう。
「明日の朝食は、お手数ですが冷蔵庫の一番上の棚のタッパーを温めてお召し上がり下さい」
「…………」
「制服のシャツはアイロンを掛けておきました。カーディガンはドライクリーニングに出しますので持ち帰らせていただきます」
「…………」
「それから……」
 淡々と話すイグニスの敬語にノクティスは真綿で首をぎりぎりと締められていくような息苦しさを覚えた。今日もまた敬語ごっこか。いい加減にしてくれ。
「……イグニス!」
 ノクティスはたまらず声を上げた。
「はい?」
「なあ、どうしちまったんだよ。そんな喋り方、冗談ならもうやめろって!」
「どうもしませんし、冗談のつもりもございませんが?」
「……っ!」
 にべもない返答に、ノクティスの中で炎が燃え上がった。体を内からぶすぶすと焦がすような苦しい炎にノクティスは身を捩(よじ)る。
「だったらいつもみてーに喋ればいいだろ!」
 唾を散らして言ったノクティスの言葉にもイグニスの鉄仮面は眉ひとつ動かさない。
「……先程の続きですが、お出掛けになる前は防犯のためカーテンをお閉め下さい。では、これで失礼いたします」
 慇懃(いんぎん)に一礼し、イグニスは出て行った。
 玄関の外から施錠音がした直後、ノクティスは拳の側面で思い切り壁を叩きつけた。
「クソッ!」
 そしてそのまま崩れるようにずるずると廊下にへたり込む。
「何だってんだよ……!」
 答えてくれる者はいない。
 胃のあたりがきりりと痛む。明らかに体にも影響が出始めていた。

 

 その夜、ノクティスは夢を見た。まるで現実かと見まごうような、五感にうったえてくる夢だった。
「ノクト、新作の料理が出来たぞ。ちょっと食べてみてくれないか?」
「ノクト! 濡れたタオルを洗濯機の中に放置するなと何度も言っただろう!」
「ゲームか、たまには付き合おう。ノクト、手加減はするなよ?」
「ペットボトルの外装は剥がしてプラゴミ。いい加減覚えてくれ、ノクト」
「今までのテストで一番いい点数じゃないか。よく頑張ったな、ノクト」
 ノクト。ノクト。ノクト。
 イグニスの穏やかな声が自分の名を何度も呼ぶ。眼鏡の向こうの優しい瞳が糸のように細められる。
 ああ、イグニス。そんなに言わなくてもわかってるって。
 夢の中のノクティスはうるさそうに、しかしながら幸せそうに微笑んでいた。それが夢だと気付くまで。
「……はっ」
 急に視界が暗転した。否、目が覚めたのだ。
 辺りは真っ暗で、時計を見るとまだ夜中の三時。
「ちくしょー……夢かよ……」
 ノクティスはうつ伏せになって枕に顔を埋めた。夢が安らかだったぶん、その反動が大きくのしかかってくる。
「夢に見ちまうほどキてるってことか……」
 ノクティスはイグニスに敬語を使われることが嫌いだった。それは今に始まったことではない。遡ればもう十年以上昔の話になる。
 すっかり目が冴えてしまったノクティスは、布団の中でひとり幼き日のことを思い出していた。

 

「初めまして、ノクティス様。僕はイグニス・スキエンティア。どうぞよろしくお願いいたします」
 父がイグニスを連れてきたのはいつのことだっただろうか。初めて会ったとき、イグニスは子どもながらに流暢な敬語でノクティスにそう挨拶をした。
 大人ばかりに囲まれて育ってきたノクティスは初めてできた歳の近い従者に目を輝かせ、それはもう喜んだものだった。気立ての優しいイグニスにノクティスはすぐに懐き、日中だけでなく夜も離れようとはしないほどで、イグニスがしばらく城に住みノクティスと寝起きを共にしていた時期すらもあった。
 イグニスもまるで小さな弟ができたかのような可愛がりようで、ノクティスの我儘にも自分から進んで付き合ってやるようなふうでさえあった。
 それでも当時はまだイグニスは敬語を使用していて、ノクティスもまたそれに疑問すら持っていなかった。
 変化が訪れたのはノクティスが小学校に上がってからだ。
 世間や常識を知らぬ大人にはなってほしくないという父王の願いで、ノクティスは公立の小学校へ通うことになった。そこでノクティスは初めて知ることになる。自分のほかに、敬語で話し掛けられている子どもなど一人もいないことに。
 すると、それまで当然だと思っていたことが、次々に疑問に思えてきた。
 なぜ城の大人たちは子どもである自分に敬語を使って話すのだろう。なぜ出会うたびに敬礼をするのだろう。なぜ他の子どもみたいに呼び捨てにしないのだろう。なぜ、なぜ……。
 しかし当時まだ小学一年生だったノクティスはその疑問をうまく言葉にするすべを持っておらず、もやもやとした澱(おり)を胸のうちに抱えることしかできなかった。
 その日も兵士たちに揃って敬礼をされ、複雑な面持ちを浮かべていると、
「どうかしましたか?」
 とイグニスが聞いてきた。
「ううん、なんでもないよ」
 慌てて首を振ったが、『どうかしましたか』というイグニスの敬語にもノクティスの胸は正体のわからない痛みを覚えた。どうしてだか、イグニスにそのような言葉遣いをされるたび、彼がとても遠い存在になったような寂しい感覚に陥ってしまうのだ。
 しかし、きっとイグニスは賢いから、誰に対してもそのように喋るのだろう。ノクティスはそう思い込むことで自身を納得させていた。
 ところが。
 城の庭をイグニスと散歩しているとき、ふとイグニスは立ち止まった。ノクティスがイグニスを仰ぎ見ると、その目線は生け垣の向こうにいる少年に向けられていた。イグニスと同世代か少し上くらいの、よく日焼けしたたくましい体つきの少年だった。
「ノクティス様、少しお待ちいただけますか?」
 ノクティスが頷くと、イグニスは生け垣の向こうへと手を振って駆け出した。
「おーい、グラディオ!」
 えっ。ノクティスは動揺した。イグニスは『様』など付けずに相手の名前を呼んでいる。
「おっ、イグニスじゃねえか!」
 グラディオと呼ばれた少年がイグニスに手を振り返す。イグニスは笑顔でグラディオのもとへ駆け寄ると、親しげに話し始めた。
「グラディオ、今日はどうしたんだい?」
「へへっ、今日は城の見学に連れて来てもらったんだ」
「そういえば来月から城で剣の稽古が始まるんだったよね。楽しみだろう?」
「当ったり前よ、強えーやつがいっぱいいるんだと思うとワクワクするぜ! イグニス、お前は?」
「僕はノクティス様の散歩のお供だよ。あちらにいらっしゃる」
「おっと、長話して待たせちゃ悪いな。じゃあ、イグニスまたな!」
「うん、また今度!」
 そう言って二人が別れるまで。ノクティスは微動だにせず、ガラスのような透明な瞳で彼らをじっと見つめていた。
 散歩の後は勉強の時間だった。勉強部屋で宿題の計算ドリルを開き、鉛筆を持つ。が、その手は解答欄のところで止まったまま、何も書こうとしない。
「ノクティス様? これは昨日と同じ種類の問題ですね。少しおさらいをしましょうか?」
 計算のしかたがわからないため手が止まっているものと解釈したらしいイグニスが言うと、ノクティスはしだいに鉛筆の先を震わせ始めた。
「……んで、」
「えっ」
「なんで、ぼくにはふつうに話しかけてくれないの」
 イグニスが鉛筆の先から上へと視線を上げてゆくと、ノクティスの睫毛もまたふるふると小刻みに震えていた。まるで、こぼれそうになる涙をぐっとこらえているかのように。
「ノクティス様……!?」
「なんで、『様』っていうの。なんで、なんでさっきの子みたいにふつうに呼んでくれないの……!」
 ノクティスがか細い慟哭を上げるにつれて、目の縁に水の粒が盛り上がってゆく。
「みんな、みんな、へんだよ! ぼくは子どもなのに、みんなむずかしいことばを使って、おじぎをして、おかしいよ!」
「ど、どうなさったのですか? 落ち着いて……」
 突然の激昂に狼狽するイグニスを涙目で睨み、ノクティスは喚いた。
「イグニスは、ぼくのともだちでしょ!? だったら、そんな話し方しないでよ! 『様』なんかつけないでよ! ぼく、そういうの……すごいイヤだ!」
 かつてない激しい口調で断固拒否したノクティスの嘆きはイグニスの胸をしたたかに打った。イグニスは言葉も発せず、ただ愕然として目を見開いている。
 涙をこらえるノクティスの顔は我慢で真っ赤になった。以前は甘ったれで泣き虫だったノクティスも、小学校に通うようになってからは泣くことに恥ずかしさを覚えるようになり、できるだけ我慢をするようになった。けれど今ばかりは、少しでも気を抜けば顔がくしゃくしゃになって涙が止まらなくなってしまうだろう。
 先に動いたのはイグニスだった。
 ためらいがちにノクティスの髪をそっと撫で、沈痛な面持ちで切り出した。
「……お心にまるで気付かず、申し訳ありませんでした」
「…………」
 またノクティスの嫌いな言葉だった。泣かないようにきつく噛んでいる唇が酷く痛む。一方、イグニスの声音もまた、頼りなく揺れていた。
「ノクティス様を傷つけるつもりなど、少しもなかったのに……僕は、どうしたら……」
 聡(さと)い子とはいえ、イグニスとてまだ小学生だ。ノクトの頭に手を添えたまま掛けるべき言葉を探してさまよっている。
「……ノクト、って呼んでくれる?」
 ぽつり、とノクティスは言った。
「えっ?」
「イグニスには、ノクトって呼んでほしい」
「ノクティス様……しかし……」
 イグニスが躊躇する理由をノクティスとて本当は理解している。従者は普通、主を愛称で呼んだりなどしない。まして相手が王族ならなおのこと。
 それでも、立場を超えてでも、ノクティスはイグニスに近くにいてほしかったのだ。物理的な距離だけでなく、気持ちのうえでの、一番そばに。
 そんなノクティスの悲痛な願いに、イグニスの真面目すぎるがゆえの堅さもゆるゆると溶かされてゆく。やがて、イグニスは口を開いた。
「……ノクト」
「…………!」
 自分の愛称なのに、初めて耳にするような響きをもってその言葉はノクティスの耳朶(じだ)に触れた。
「ノクト。これから、そう呼んでもいいですか? ……いや、そう呼んでいいかい?」
「イグニス……!」
 敬称も敬語も取り払ったイグニスの声音は、まるでノクティスの胸の中や頭の中でりんりんと涼やかに鳴る鈴のよう。ノクティスは全身に満ちゆく喜びのほとばしりを感じた。
「もちろんだよ! ずっと、そう呼んでね? あしたも、あさっても、ぜったい!」
「わかったよ。なんだかちょっと変な感じがするけど、慣れるように努力しま……努力するよ」
「えへへ、よかった! よかったあー!」
 ノクティスは涙を忘れてイグニスにぎゅっとしがみついた。イグニスの胸に頬を押し付けると、イグニスの手が優しく頭を撫でてくれた。
「これからもずっとともだちでいてね、イグニス」
「僕のほうこそ。ずっといっしょだよ、ノクト」
 二人は幸せそうにくすくすと笑い合う。
 以来、イグニスがノクティスに対して敬語を使うことはなくなったのだった。

 

 ノクティスが枕に突っ伏して遠い日の約束に想いを馳せていた未明、一方イグニスもまた眠れぬ夜を過ごしていた。
 布団に入ってからすでに三時間以上が経過しようというのに頭は一向に眠ろうとせず、寝返りを打つばかりで無為に時が過ぎてゆく。
「ノクト……」
 瞼の裏に浮かぶのは、敬語が嫌だと目にいっぱいの涙を溜めてうったえる幼き日のノクティス。そして、現在のイグニスを見る悲しげな瞳。あのような顔をさせてしまっている要因がほかならぬ自身であるという事実が、臓腑を掻きむしりたくなるほどにイグニスの心を苛(さいな)んだ。
「すまない、ノクト……。すべてお前のためなんだ……!」
 まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。握り締めた手に突き立つ爪が、痛かった。

   ■   ■   ■

 イグニスが突如ノクティスに対し他人行儀な態度を取り始めてから一週間。
 ついに心身ともに我慢の限界に達したノクティスは、イグニスをマンションに呼びつけた。
 その日は明け方から雪が降っており、本来イグニスが来る予定はなかったのだが、車のタイヤをスタッドレスに交換してまでイグニスは律儀に参上してくれた。
 冷々たる態度をとるくせに、そうした行動はまるで変わらない。美味い食事も作ってくれるし、掃除や洗濯もこれまで通り完璧に仕上げてくれる。
 それだけに、ノクティスの心は余計に苦しさを覚えた。もしもノクティスのことを嫌いになったのならば、いっそ何もしてくれないほうがましである。業務だけ淡々とこなされては、まるでイグニスが『仕事』をするためにここに来ているみたいじゃないか。
「……イグニス」
「はい、何でしょう」
 冷え冷えとしたリビングで立ったまま向かい合い、ノクティスは押し殺した声で言った。
「頼むから、本当のことを教えてくれ」
「本当のこと、とは」
 この期に及んで素知らぬ顔を貫くイグニスに、反射的にノクティスは声を荒げていた。
「お前がそうやって、まるで他人みたいに、オレのこと突き放してる理由だよっ!」
 ノクティスは右手を己の胸に当て、自分でも情けないほどに眉尻を八の字に下げてイグニスを見上げる。
「なぁ……オレ、何か悪(わり)ぃことした? お前の気に障るようなこと言った? もしそうなら教えてくれよ、謝るからさあ!」
「ノクティス様が謝罪なさるようなことは何もございません。どうぞお気になさいませんよう」
「気にすんなって言われても……無理に決まってんだろ!? お前さ、ガキの頃から知ってるだろ? オレが、お前に敬語使われるのが、どれだけ嫌か……」
 遠いあの日、イグニスは約束したはずだ。ノクティスのことを『ノクト』と呼び、単なる主従よりももっと近い場所にいることを。それはその先ずっと、未来永劫に渡って有効な約束ではなかったのか。それとも、イグニスはもうそんな子どもの約束などお遊びだとでも言うのか。
「勿論存じております。ですがノクティス様、もう自由気ままな子どもではないのです。我々は友人である前に主従、違いますか?」
「……はぁ!? 本気で言ってんのか……?」
 友人である前に主従、だと。ノクティスは我が耳を疑った。まさかイグニスからそんな台詞を聞く羽目になるとは思ってもみなかった。そんな、これまで築き上げたノクティスとイグニスの関係を全否定するような台詞を、他の誰でもないイグニス自身のその口から。やめろ、お前の声でそんなことを言わないでくれ、頼むから。
「だから、敬語使って、『様』付けで呼び始めたのか」
「はい。それが、本来の従者のあり方です」
 正論すぎて温度の欠片もない答えだった。
「そっ……そりゃあ、フツーはそうかもしんねーけど! でも、違うだろ……オレとお前は、そんなんじゃねーだろ……」
 抗い難(がた)い憤りと悲しみに襲われ、ノクティスは肩を震わせた。骨身を焦がすような熱が頭に昇り、両目の奥が灼(や)けてしまいそうだ。
「そんなんじゃねーだろーが、馬鹿野郎……!」
 『そんなんじゃない』なら何なのか、うまく表現できるような語彙は見つからない。だが、とても一言で言い表せるものではないこの関係が、主従などという安易な単語に収められるのは絶対に間違っている。ノクティスは唇を噛んだ。
「……もういい」
 イグニスから目を逸らし、ノクティスは言った。まったく良くなどなかったが、それよりも悲憤から来る諦めと、徒労にも似た疲労感がノクティスの意気を喪失させた。
 ノクティスはまるで他人の横を通り過ぎるように、イグニスの顔を一瞥すらしないでリビングを出た。
 イグニスは変わってしまった。なぜという疑問を考えるのにも疲れてしまった。それが何であれ、もはやイグニスに自分の声は届かないのだから。
 失意という泥濘に足を取られるような重い足取りで、ノクティスは自室へ向かう廊下を歩く。意図しなくともため息がこぼれた。
 と、そのときだった。
「……痛(つ)っ!」
 ノクティスは突然、腹を押さえてその場にうずくまった。胃のあたりがまるで太い針で刺されているかのようにきりきりと鋭く痛み、立ち上がることもできない。
 ここ何日か胃が痛むことはあったが、これほど強烈な痛みは初めてだ。顔が歪み、脂汗が浮かぶ。
「くっそー……」
 動けないでいると、異変を察したイグニスがリビングから廊下へと出てきてノクティスを見るなり眉根を寄せた。
「ノクティス様……? ノクティス様っ!」
 ただごとではないと気付くなり、イグニスは血相を変えてノクティスに駆け寄り、屈みこんで肩を支えた。
「どうなさったのです!? 大丈夫ですか!」
「何でもねーよ……っ」
「何でもないことはないでしょう、腹が痛むのですか!?」
「何でもねーって、言ってんだろ……!」
 苦悶に顔を歪めながらノクティスが煩わしそうにイグニスの手を振り払った瞬間。イグニスの瞳に強い力が宿った。
「強がりを言うな、ノクト!!」
「!」
 ノクティスは二重の意味でぎょっとしてイグニスを振り仰ぐ。ひとつはイグニスが珍しく声を荒げたことへの驚き。そしてもうひとつは。
 今、何て――。
 問おうとしたノクティスの先手を打つように、イグニスは真剣そのものの眼差しをノクティスに叩きつけた。
「腹痛を舐めていたら命に関わることだってあるんだぞ! ノクトにもしも何かあったらオレは……!」
 そこまで言って、はっとする。ノクティスのただならぬ様子に動転して、敬語や敬称が元に戻ってしまっていたことに。
 しまった、と口をつぐむイグニスに、ノクティスは苦渋を滲ませながらもにやりと笑いかけた。
「今、『ノクト』って呼んだな」
「あ……」
「心配いらねーよ……寝不足とストレスで、ちょっと胃が痛ぇだけだ……誰かさんのせいで、な」
 ノクティスは苦痛の中にもシニカルな笑みを浮かべる。対照的に、イグニスは神妙な面持ちになり、視線をさまよわせた。
「……オレの、せいなのか」
「他に何があんだよ」
「オレのせいで、ノクトがこんな……」
 イグニスの声が震える。
 ノクティスを悲しませるだけでなく、体調まで崩させて苦痛を与えてしまった。その現実が双肩に鉛のように重くのしかかり、イグニスは廊下の冷たい床に手をつく。そうでもしなければ自らのしでかした過ちの重大さに押し潰されてしまいそうだった。
「オレは……」
「……っ!」
 絶望の淵からイグニスを引き戻したのは皮肉にもノクティスの呻きだった。
「ノクト!? とりあえず、病院へ行かなくては……」
「やめろ……病院行ったら、おおごとになっちまうだろ……!」
 ノクティスが病院にかかればすぐに情報が王城へと伝えられる。イグニスとのいざこざのストレスで胃炎を発症したなど、父をはじめ皆に知られればみっともないどころの騒ぎではない。
「しかし……!」
「イグニス、頼むよ……」
 イグニスは難しい顔をしていたが、やがてノクティスの意向を酌んで頷いた。
「わかった。ただし、明日になっても良くならなければ病院へ連れて行く。いいな?」
「……ああ」
「とりあえず、横になったほうがいい。ノクト、立てるか?」
「どうにか」
 イグニスはノクティスの脇から腕を差し入れ、支えながら立ち上がった。
「では、ベッドまで行くぞ」
 ゆっくり歩いてノクティスの部屋のドアを開けると、何時間も人の気配がなかったそこはリビングよりもなお冷え込んでいた。イグニスはノクティスをベッドに横たえるとすぐに、手際良く床暖房に加湿器、電気毛布のスイッチを入れて環境を整えた。
「胃薬を持って来る。少し待っていてくれ」
「おー……」
 足早に部屋を出て行くイグニスの声を聞きながら、ノクティスは布団の中で丸くなる。
 胃はこんなに痛むのに、久々に普段通りの話し方をするイグニスに触れただけで胸の苦しさが薄れて安堵しているのが何とも不思議な気分だ。
 イグニスは完全に変わってなどいない。それがわかっただけでもノクティスはただただ嬉しかった。
 数十秒もしないうちにイグニスは戻ってきた。右手には水の入ったコップを、左手には常用している鞄を持っている。
 イグニスはコップをベッドのサイドテーブルに置くと、自分の鞄の中から薬瓶を取り出した。
「ノクト、胃薬だ。飲めるか」
「ん」
 ノクティスは上半身をもたげ、水を口に含んで錠剤を受け取った。ごくん、と飲み干して再び枕に沈む。
「……お前、いつも胃薬持ち歩いてんの?」
「いや、そういうわけではないが……」
 薬瓶を鞄に戻しながら、イグニスは苦笑した。
「実は、オレもここのところ胃の調子が悪くてな」
「ぶはっ。何だそりゃ、お前もかよ」
 ノクティスは布団の中で肩を揺らした。
 イグニスは机の前の椅子をベッドのそばに引っ張ってきて、ノクティスを見守るように腰を下ろす。そして、もはやこれまでと観念したのだろう、ひとつ深呼吸をしてから、頑なに覆い隠してきた苦悩を吐露し始めた。
「情けない話だが、いち従者としてノクトに接することがこれほど困難だとは思わなかった。オレが敬語を使うたびにつらそうな顔をするノクトを思い出すと、夜も眠れなかった」
「……え、お前、無理してたのか……?」
「当たり前だ。あのような態度……平気でできるわけがないだろう?」
 今こうして普通に話せている喜びを噛み締めるように、イグニスは泣きそうな微笑を浮かべた。そしておもむろに居住まいを正すと、ベッドの上のノクティスに向かって頭を下げた。
「ノクト。今回の件、本当にすまなかった。オレが至らないばかりに」
「おっ、おい、イグニス?」
 突然の謝罪にノクティスはうろたえた。だがイグニスは頭(こうべ)を垂れたまま続ける。
「お前が傷つくとを知りながら傷つけてしまったこと、心底反省している。好きなだけ詰(なじ)ってくれていい。どんな罰も受け入れる。どんな望みでも聞く。それで許されるなどとは思っていないが……」
「ちょ、やめろ、顔上げろって!」
「…………」
 それでは気が収まらない。自分で自分を許せない、イグニスの気が。
 ああもう、とノクティスは上体を起こし、この真面目すぎる男の顔を両手で挟んで無理矢理上げさせた。
「許すとか、許さねえとか、そんなのどうでもいいから! オレは、お前がいつものイグニスに戻ってくれればそれでいいんだってば!」
「ノクト……」
「敬語ごっこはこれで終わり。なっ?」
「しかし」
「シカシもシメジもねーよ! オレがいいって言ってんだから。……あぁもう、そんな顔すんなって」
 捨て犬のように情けない顔で見つめてくるイグニス。こちらまでどうしていいかうろたえてしまう。
 ノクティスはためらいがちにイグニスの髪に手を伸ばし、撫でてやろうとした。が、気恥ずかしさと不慣れさが手伝って、それは撫でるというよりわしわしとかき混ぜるような動作になってしまう。しかしながら、そんな多少乱暴すぎる手つきも、イグニスの心を溶かすには充分すぎる愛情表現だった。
「……わかった」
 ようやくイグニスは緊張を解いて、ふ、と表情を緩めた。そして、おもむろにノクティスの背に腕を回して引き寄せる。
「うおっ」
 ノクティスは予告なく近付いたイグニスとの距離に驚きの声を上げたが、落ち着いて状況を把握すると、ノクティスが抱き締められているというよりもイグニスが縋(すが)り付いていると言ったほうが正確なように思えた。
 イグニスは言葉こそ発しないが、その手にはノクティスの服地が引っ張られるほどに強く力が入っているし、ノクティスの肩口に埋もれるように伏せられた顔は簡単には上がりそうもない。
 彼らしくもなく弱っているのだ。
 仕方ねえなあ。そう思うと、この弱った男を自分が支えてやりたい、という気持ちが湧き上がってきた。
「おい、そんなにくっついたらメガネ汚れるぞ?」
 イグニスは顔を伏せたまま頷いた。構いやしない、という意思表示だ。
「ったく……これじゃあどっちが年上なんだか」
 ノクティスは苦笑しつつ、自分がぼさぼさにしたイグニスの髪にそっと手を添えて、ぎこちなくも優しい手つきで後頭部を撫でてやった。今度はうまくできた。幼い頃から幾度となくイグニスにしてもらってきたこの動作が、相手をいかに安心させるかをノクティスが一番よく知っている。
「……ありがとう、ノクト」
「どーいたしまして」
 冷えきっていた部屋はいつの間にか心地良い暖かさになっている。しかしこれは決して暖房器具による効果だけではない。ノクティスとイグニスの間にある確かなぬくもりが、何よりも暖かかった。

   ■   ■   ■

 一夜明け、土曜日。昨日降り積もった雪はすでに解け、太陽の光を眩しく照らし返している。
 薬が効いたおかげか久々に熟睡できたおかげか、回復した天気のようにすっかり体調を持ち直したノクティスは、昨日とは打って変わってのんびりとした調子でイグニスに尋ねた。
「そういやさぁ、結局イグニスが敬語になった理由ってなんだったわけ?」
「……聞いて驚くな、というほうが無理かもしれないが、」
 わざわざそんな不穏な前置きをして、イグニスは眼鏡のフレームを指先で押し上げた。
「実は、宮内庁からお叱りを受けた」
「宮内庁!? なんでまた」
 予想の斜め上を行く単語が飛び出してノクティスの声が裏返る。
「……近頃のノクティス王子の素行と成績の悪さは目に余るものがある、と」
「んなっ……!」
 衝撃のあまり、しばしノクティスはイグニスを見上げる目をぱちぱちと瞬(しばた)かせた。
「このままでは大学への進学すら危うい、とさえ警告されてしまった」
「でっ、でも、王族はエスカレーター式に進学できるって……」
「普通は、な。その『普通』が通らないほど問題視されているということだ」
「……マジか」
「マジだ」
 ノクティスの語彙をそのまま借りてイグニスは大真面目に頷く。うへえ、とノクティスは目を覆った。一国の王子がエスカレーター式の進学に落第するなど笑い話にもならない。
 ゲームセンターに入り浸りすぎて補導されそうになった件だろうか。前回の定期テストの数学で赤点をとってしまった件だろうか。それとも教頭をハゲ呼ばわりしたのがばれたのか。思い当たる節がありすぎて頭がぐらぐらする。
「それで、ノクトがこうなってしまったのは側付きであるオレが甘すぎるからだと指摘されてな。主従らしく、もっと距離を取るようにと命じられたんだ」
「だから急に態度が変わっちまったのか」
「これからはきちんと敬語や敬称を使わなくては、と思ったからな」
 しかし事情を話せばきっとノクティスはイグニスの対応の変化を深刻に受け止めないだろう。ゆえに説明もないままに態度を急変させる結果になってしまった、とイグニスは詫びた。
「いやそれ、結局オレのせいだし。うっわー最悪……」
 ノクティスは潰れたカエルのようにぺしゃんこになって呻く。
「やばいと言えば、オレの脚もそろそろしびれが限界なんだが?」
「はぁ? もう?」
 不満気にイグニスを見上げながらノクティスは唇をへの字に曲げた。
 何気なく会話している彼らだが、その体勢ときたら。ソファーに座るイグニスの左腿の上にノクティスが頭を置き、横になってくつろいでいる。要は膝枕というやつだった。
 服装も、ノクティスは着古してだるだるになった黒の上下スウェット姿、イグニスももはやネクタイは締めておらず、ヘンリーネックのカットソーにラフなカーディガンという出で立ちだ。
 気の置けない者同士にしか許されない完全休日仕様である。
「しょーがねえなあ。じゃあ場所交代な、今度右脚借りるわ」
「まったく……」
 遠慮も何もないノクティスの物言いに口ではそうぼやくが、イグニスもまたまんざらでもない表情だ。座る場所を左右入れ替わり、しびれていないほうの脚を枕にしてノクティスが無防備にごろりと横になるのを眺めるイグニスの瞳は、優しい。
 かれこれ何分、いや何時間この調子だろうか。一週間の悶着が穿った心の穴を埋めるように、どちらから言わずともノクティスはイグニスに甘え、イグニスはノクティスを甘やかす。そんな穏やかな土曜日がゆっくりと過ぎてゆく。
 イグニスの膝枕の上で、ノクティスは瞼を閉じる。降りかかった案件は重大だが、気持ちは最高だ。
 あぁ、落ち着く。一週間ぶりのこの感覚。こういうの、何て言うんだっけ。『幸せ』ってやつ? 言葉にしてしまえば驚くほど陳腐だが、このふわふわとした、満たされる感覚を表現するにはそれが一番近い。
 この幸せを、二度と手放さないようにしなければ。
「……なぁ、イグニス」
 ノクティスは目を開け、イグニスを見上げた。
「どうした?」
「イグニス、昨日オレの言うこと何でも聞くって言ったよな」
「ああ、言ったな」
「やっぱあれ、ひとつ頼みがあんだけど」
「何だ? 何でも言ってくれ」
 イグニスに期待に満ちた目を向けられて、ノクティスは若干きまり悪そうに頬を掻く。どうせイグニスは何でも望むものを買ってやろうとか、野菜抜きの料理でも喜んで作ってやろうとか、殊勝なことを考えているに違いない。そんなんじゃねえんだけどな、と思いながら、ノクティスは切り出した。
「あの、さ。……勉強教えてくんねぇ?」
「勉、強?」
 予想通り、イグニスは何でも来いと構えていたのだろう。拍子抜けしたように反芻した。
「イグニスの都合がいい日だけでもいいから。……それでオレがちゃんとすりゃ、宮内庁だって文句ねーだろ?」
 そうしたら、イグニスも叱られなくて済む。今回のようなつらい思いをしなくて済む。ノクティスはそう言って、不器用な笑みを浮かべた。
「ノクト……」
 イグニスの戸惑い顔が、感慨深げに緩み、目尻に皺を刻む。
「わかった。喜んで承ろう」
「よろしく頼むぜ、イグニス先生」
「ああ。途中で音を上げるなよ?」
 ノクティスとイグニスは握った拳の甲と甲をこつん、とぶつけ合った。
「善は急げと言うからな、早速始めるか?」
「え、今から?」
 勉強する意志は本物だが、さすがに今すぐにとは思っていなかった。まだ胃痛も完全には治っていない。しかし、成績を大きく上げるにはあまりのんびりしていられないのも事実。脳内会議で勉強派ノクティスと休息派ノクティスの議論が紛糾し、ノクティスはイグニスの膝枕に寝転がったままうんうん唸った。
 果たして、その結論は。
「ん~~~、あと五分! あと五分だけ」
 ノクティスはイグニスの腰にがばっとしがみつき、脇腹あたりに顔を押し付けた。
 あと五分、それが勉強派の譲歩であり、休息派の最低限の要求だった。負った傷は今すぐ立ち上がるには深すぎる。せめてもう五分、こうしてイグニスの体温を感じていたい。
「……わかった。あと五分、こうしていよう」
「ん」
 ノクティスはイグニスの腰にしがみついたまま頷いた。ふいに、ふわりと髪が梳かれる感触。触れるような、撫でるような、優しい手つき。ある程度の年齢になってからは歳相応の羞恥心が邪魔をしてこのような触れ合いは数を減らしていたが、幾つになってもこの甘ったるい幸福感が色褪せることはない。昨日はその見よう見真似でイグニスの髪を撫でてみたけれど、こんなふうにうまくできていただろうか。
 イグニスの優しい手が好きだ。イグニスのあたたかい体温が好きだ。イグニスの心地よく耳に響く声が好きだ。広い背中も、腹が立つほど長い脚も、一見冷たいのに実は誰より穏やかな瞳も。
 あぁ、好きだなぁ、と簡単に再認識させられてしまう。
「イグニス」
「何だ?」
「今度また距離を置こうとか馬鹿な真似したら、オレ泣くからな!」
 ノクティスの駄々っ子顔負けの可愛らしい台詞に、イグニスの顔もほころんだ。
 敬語ごっこの果てに改めて気付かされた、互いの存在の大きさ、尊さ、そしていとおしさ。再び戻ってきたかけがえのない時間が、二人をあたたかく包む――。

 

おしまい

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