HORIZON

Haikyu【兎赤】
『ありがとう、さようなら、大好き』

※ぬるいですが腐向けです! BLが苦手な方は閲覧をご遠慮くださいませ。

付き合ってないけどお互い大好きな木兎さんと赤葦のお話。
木兎さんの卒業の日、赤葦はすでに別れの覚悟を決めていたはずなのにふいに号泣してしまう。

ありがとう、さようなら、大好き

 覚悟など、とうにできていると思っていた。
 春高が終わり、赤葦が新主将に就任したときから、いやもっとずっと前から、いつか迎えねばならぬ日と覚悟していたはずだった。
 三月一日、卒業の日。
 この日を以て、木兎たち三年生は梟谷学園高校を去る。

「それにしても、すげえ久しぶりだよな! このメンバーで集まるの!」
 体育館の床に引かれたエンドラインに立ち、木兎はサーブを打つかのように腕を振り下ろした。ただしそこにボールはない。服装もユニフォームとバレーシューズではなく、制服と体育館シューズ、そして祝いのコサージュ。それが今日の三年生たちの出で立ちだ。
「ホントにな。引退の日以来じゃね?」
 木葉が同意し、少し懐かしそうに天井の照明を見上げた。
 梟谷では卒業式後、卒業生のうち部活動に入っていた者は、それぞれの部で最後の談話を楽しみつつ写真撮影をするのが通例となっている。男子バレー部も例に漏れず、元主将である木兎をはじめとするメンバーが体育館の一角に集合していた。
 この集まりには後輩も多く参加する。当然、新主将である赤葦は会の進行をするべく誰よりも早く来て、超がつくほど真面目な顔で一、二年生を取りまとめていた。
「ヘイヘーイ赤葦キャプテン! サマになってんなあ! どーだい、新しいチームは?」
 背中をバシバシ叩きながら木兎が愉快そうに赤葦に尋ねてきた。
「みんな今まで以上に力入ってますよ。コンビネーションはまぁ、まだまだこれからって感じですが」
「へーえ、いいなあ俺もスパイク打ちたい」
「木兎さんは卒業してください」
「ちぇー、俺が分裂できたらもうひとりの俺を留年させて置いてくのに」
「馬鹿なこと言ってないで、ほら、始めますよ」
 赤葦はいつもどおり木兎を適当にあしらい、皆に集合をかけた。
 もう一年一緒にできたらどんなにいいか……そう言いたいのはこちらの方だというのに暢気なものだ。
 だが喉元が苦しくなるようなそんな思いは、三年生が引退した日にすでに腹の奥へと飲み下した。これからは木兎に代わって自分が梟谷男子バレー部を率いていくのだから。
「改めて、本日はご卒業おめでとうございます」
 卒業生たちを前に赤葦が言うと、一、二年も揃って「おめでとうございます!」と頭を下げた。そしてあらかじめ役割を決められていた部員が各々カーネーションを卒業生に贈った。花言葉は『尊敬』。
 まさに『尊敬』だったな、と赤葦はその様子を見ながら思う。
 好不調の波が激しく時に問題児扱いされる木兎だが、赤葦から見ればいつだってスターだった。自分の上げたトスでスパイクを決める木兎は本当に眩しかったし、それが見たいからこそまた完璧なトスを上げたいと思った。
 そもそも木兎に出会っていなければ梟谷に入学すらしていなかった可能性だって高い。バレー自体、ここまで心血を注げるほど懸命になれていたかどうか。
 ある意味赤葦の高校生活を無茶苦茶にしてくれた張本人だが、後輩からカーネーションを受け取り嬉しそうに笑う木兎を眺め、赤葦は「この人に会えてよかった」と改めて思った。
「じゃあ次に、現レギュラーからコメントを」
 卒業生たちからは引退のときにすでに熱い想いのこもったメッセージを貰っているので、今日は後輩のうちの主だったメンバーから祝いの言葉を贈ることになっている。本当は全員が話せればいいのだが、部員の数も多いためとりあえず新入生が入るまでの仮レギュラーが代表して祝辞を贈った。
 ひとり、またひとりと話すたび、卒業生がわっと盛り上がり、時に涙ぐみ、照れたような笑顔になる。そして最後に赤葦の番が来た。
 当然、喋る内容は何日も前から考えてある。先輩方への感謝、そして新年度への抱負。「これなら心配いらないな」と安心して卒業してもらえる内容にしたつもりだ。
「今まで、本当にお世話になりました。まだ二年だった俺を、正セッターとして信頼してくださったこと、感謝してもしきれません」
「おおー、赤葦マジメか!」
 木葉が茶々を入れたが鷲尾が肘で突く。
「茶化してやるなよ」
「いやぁこれで赤葦のマジメ顔見るのも最後かと思うと感慨深くてさあ」
 ケラケラと冗談のように笑っているが、木葉なりに別れを寂しく思っているのだ、と赤葦は熟練の脳内翻訳をかける。そしてそれは多分正解だ。
 ンッンン、と咳払いをして赤葦は続ける。
「木葉さん、分からないことだらけだった俺に色々教えてくださってありがとうございました」
「!」
「木葉さんは以前自分のことを『器用貧乏だ』などと言っていましたが、器用であることに貧乏などありません。何でも頼りになる木葉さんのおかげで俺は幾度となく救われました」
 茶化していた木葉は赤葦の言葉に軽口を引っ込める。そしてどこかむずがゆそうに唇をへの字に曲げ、
「まぁお前は飲み込みが早かったからな、教えがいが、なくはなかったよな」
 とぶっきらぼうに言った。珍しく照れている木葉に周囲からくっくっと笑いが漏れた。
 その後も赤葦は順番に先輩たちひとりひとりに対し、簡潔ではあるが心のこもった感謝の言葉を述べていった。
 そして一番最後に木兎への番となった。
 二、三人前からすでにソワソワと自分の番を待っていた木兎に赤葦が向き直る。
「最後に、木兎さん」
「ハイッ!」
 出席の点呼か、と突っ込みたくなるような元気な返事をしてびしっと姿勢を『気をつけ』にする木兎。どんな言葉をもらえるのか、その目は期待に満ち満ちている。相変わらずだな、と赤葦は苦笑した。
「……木兎さんはもう覚えてないかもしれませんが、まだ入学して間もない頃、俺をセッターに指名してくれましたね」
「ん? おう、覚えてるぞ! すげーいい後輩が入ってきたって思った!」
「あのとき木兎さんが俺のトスを最高って言ってくれて、俺、めちゃくちゃ嬉しかったんです」
 当時の記憶が蘇り、身体中の皮膚がぶわっ、と震えた気がした。そうだ、ストレートに褒められることの嬉しさを教えてくれたのも木兎だった。
「木兎さんと組むのは、まぁ……大変なときも、たくさんありましたが」
 時折挟まれる微妙な間に「お前の苦労は分かるぞ」と言わんばかりに先輩たちがうんうんと頷く。
「でも、本当に、」
 楽しかったです。
 そう言おうとしたとき。
 はたはた、と何かが落ちた。
「……?」
 一瞬、雨漏りだと思った。
 が、天井を見上げてから今日は快晴であったことを思い出す。
 そして自らの頬に手を当て、その濡れた感触に、赤葦は不思議そうに眉をひそめた。

 

 何だ、これは。

 

 ――涙だ。

 

 誰の。

 

 ――俺の。

 

「……!!」
 そう悟った瞬間、ようやく赤葦は理解した。
 はたはたと落ちるこの雫は、自分の両の瞳からこぼれる大粒の涙だったのだ。
 意味がわからず、赤葦は立ち尽くした。
 続きを喋ろうとしても、まるで鉛のかたまりでもつっかえているかのように喉がふさがって声にならない。
 突然の出来事に固まっている皆の視線が全身に突き刺さる。
 頭の中が真っ白になった。完璧に暗記してきた祝辞など彼方に吹き飛び、もはやパニック寸前だ。
「……っ、すみません、先、写真撮影やっててください」
 何とかそれだけ絞り出すように言い残すと、赤葦は皆から顔を背けて踵を返した。
 そして逃げるように部室へと駆け込み、バタン、と扉が閉められる重い音だけが体育館に響いた。
 静まり返り、皆が何か幻でも見たかのように呆然とする中、沈黙を破ったのは木葉だった。
「行ってやんな」
 木兎の肩を押す。はっと我に返る木兎に木葉は言った。
「今まであんだけ赤葦に支えられてきたんだから、こんなときくらい支えてやれ」
 鷲尾もそれに続く。
「お前にしかできないことだ、木兎」
 猿杙と小見も同調する。
「俺たち外で写真撮ってるから。後から来いよ」
「二人揃って、な!」
 皆の後押しを受け、呆然としていた木兎の瞳にみるみる活気が戻り始めた。やがて、任せろ、とばかりに大きく頷くと、しゃんと顔を上げ、まっすぐに部室を見据えた。
「……行ってくる!」
 自分のカーネーションを木葉に預け、木兎は胸を張って走り出す。一度も振り返ることなく、その目はただただ赤葦の残像を追いかけた。

「や……」
 部室に逃げ込んだ赤葦は、色褪せたベンチに座り込み、膝に両肘をついて頭を抱えていた。
「やってしまった……」
 とんでもない大失態だ。
 会の進行どころか、祝辞の途中で号泣して二の句が継げなくなるなど。まだ新年度の抱負も語っていなかったのに。
 しかしそんな悔恨と羞恥の念とは裏腹に、顔を覆う指と指の隙間からは涙が溢れ出てくる。
 覚悟など、とうにできていると思っていた。していたはずだった。だが、いざ木兎を前にして、木兎との思い出がほんの一風景でも甦ったあの瞬間、脳の支配が及ばない心身のどこかがぐらぐらと崩れた。
「あぁー……」
 子供じゃあるまいし。穴があったら入りたい。できるなら時間を巻き戻したい。赤葦は声にならない声を上げた。
 と、その時。
 かちゃり、と大変控えめにドアノブを回す音がして、背後で部室の扉が開いた気配がした。
「あかーしー……?」
「!!」
 木兎が扉の隙間からそうっと顔を出したのと、赤葦の肩が跳ねたのはほぼ同時だった。
「……何ですか、木兎さん」
 顔を覆う手の中からくぐもった声で赤葦が言う。
「え!? 何ってそりゃあ、」
 木兎からしてみれば何ですかも何もあったものではない。赤葦が泣いていたから追いかけてきたのに、逆に問われるとは順序があべこべだ。
 まさかの先制攻撃を食らった木兎はうろうろと言葉を探しながら言った。
「いや、その、赤葦泣いてたから大丈夫かなと思」
「泣いてません」
 木兎が最後まで言い終わらないうちに、赤葦はしゃきっと背筋を伸ばして木兎に振り返り、無表情で答えた。
 なるほど、そう来たか。むーん、と木兎は半眼の笑みになってこの妙に落ち着き払った後輩としばし睨み合う。
 そっちがそう来るならば、と何か名案を閃いたらしい木兎は、部室のドアを閉めると赤葦にのしのし歩み寄った。
「赤葦! 今なら木兎さんの胸で泣いていいぞ! さあ!!」
 ばーんと両腕を開いて木兎は大サービスをアピールした。
 が、返る言葉はけんもほろろ。
「いえ、結構です」
「あっハイ」
 スンッ、と得体の知れない圧力を放って木兎の言葉を封殺する赤葦に木兎は問答無用で首肯した。これは下手に触れてはいけないやつだ。
 開いた両腕の行き場を完全に失くした木兎は、赤葦の左隣にしおしおと腰を下ろした。赤葦はまっすぐ前を見つめている。
 赤葦は「泣いてない」と言ったけれど、と木兎は赤葦の横顔を見やる。
 先程突然号泣し始めたのは誰もが目にしたことだし、何より今この横顔がすべてを物語っている。目は真っ赤に充血し、頬には幾筋も涙の跡が濡れているのだ。
「……ほら」
 直視するのも忍びなく、木兎は棚の上にあったティッシュボックスを赤葦に手渡した。
「……ありがとうございます」
 赤葦も素直にそれに従い、ティッシュペーパーを引き抜いて目元を拭ったのち乱暴に鼻をかんだ。
 はぁ、とひとつ呼吸を置くと、少し気持ちが冷静になった気がした。
「……すみません、俺のせいで」
 話し始めたのは赤葦だった。
「いーよ、気にすんな。みんな分かってるから、赤葦のこと」
「でも」
「先に外で写真撮ってるって。時間もまだまだあるし、俺たちは後から行けばいいよ」
「……すみません」
 木兎は明るく言ったつもりだったが、赤葦は二度目のスミマセンを言ってため息をついた。そして赤葦はピンと張っていた背筋をゆるゆると力なく屈め、膝に両肘をつき、顔を覆ってうなだれた。
 いつも冷静で大人びている、と周囲から評される赤葦が普段はまず見せることのない姿。だが、木兎はこれを知っている。赤葦がひどく弱ったときだけに見せる姿だ。直近で見たのは春高で己のミスを悔やんでいるときだったか。
「俺……覚悟できてたつもりだったんです。笑顔で木兎さんたちを見送れるって。寂しさとか、悲しさとか、そんなのはもう引退式のときに全部消化したつもりでした」
「うん」
「けど、違いました。あのとき、祝辞を言いながら、初めて木兎さんにトスを上げた日のことを思い出した瞬間……今までのことが全部ぶわーって頭の中に浮かんできて……」
「うん」
「毎日夜遅くまで一緒に自主練やったこととか、木兎さんと試合に出て初めて勝った日のこととか、負けてすげえ悔しかったこととか、木兎さんの一番いいときのスパイクのフォームとか、合宿で食ったバーベキューとスイカの味なんかまで、全部、全部っ……!」
「うん」
 声を詰まらせる赤葦に、木兎はただただ頷いた。
「分かるよ、赤葦。俺もそうだもん」
 えっ、と驚いたように赤葦は顔を上げた。
「言ったじゃん、もし俺が分裂できたらひとり置いていくのにって。バカな冗談に聞こえたかもしんないけどさ、俺ほんとに赤葦とまだまだバレーやりたかったよ」
 本気だよ、と陽気な彼にしては淋しげな笑顔で木兎は言った。
「……っ」
 赤葦の目元がくしゃりと歪む。再び顔を伏せ、赤葦は呻く。
「ズリーっすよ、そんなの」
 そんなこと言われるとよけい別れがたくなるじゃないですか。ああだめだ、また涙が溢れてくる。赤葦は唇を強く噛んだ。
 どうして自分はもう一年早く生まれなかったのだろう。どうして彼と同じ時を歩めないのだろう。無論、木兎が先輩として梟谷にいたからこそ出会えた縁であることは重々承知している、しかしながら今このときばかりは自分と木兎を隔てる学年という壁が呪わしい。
「……俺、たぶん木兎さんのことすっげえ好きでした」
 床にぼたぼたと涙を落としながら、赤葦は涙声で言った。
 いつだって眩しかった。周りに何と言われようと、いつだって赤葦のスターだった。赤葦を惹きつけてやまない光があった。光そのものと言ってもいい。
 育ちすぎたこの尊敬の念を、明日からどこへ持っていけばいいというのだろう。
「俺も、赤葦のこと大好きだよ」
 後輩のまっすぐな言葉に木兎も静かに返す。映画の決め台詞のようなひと言だったが、それ以外にどんな言葉も思いつかなかった。が、
「知ってます」
 再びブビーッと思い切り鼻をかみながら即答する赤葦に、自分なりに結構格好いいことを言ったつもりだった木兎は思わず「エーッ」と変な声を上げる。赤葦は、木兎に対して時々辛辣だ。
「でも、グスッ、ありがとうございます」
 赤葦は雑に目元を拭い、姿勢を起こした。そして今度はきちんと木兎の目を正面から見て、グズグズと鼻声で言った。
「木兎さん。さっきのアレ、まだ受付中ですか。やっぱりちょっと貸してください」
「ん?」
 一瞬何のことだか測りかねた木兎だったが、コンマ一秒で頭上に電球が閃いた。
「おお、アレな!」
 もちろんだ、と赤葦に向けて木兎は両腕を勢いよく開く。
「どんと来い、赤葦ィ!」
「失礼します、木兎さん」
 赤葦も律儀に挨拶をして、木兎の左肩にごつん、と額を預けた。
 そう、赤葦が言う『アレ』とは、木兎が最初に言った「今なら木兎さんの胸で泣いていいぞ!」という、ふざけた、しかし大真面目なアレだった。
 身長の近い彼らのこと、胸で泣くなどというのはただの脚色で、実際は赤葦が木兎の肩口を借りる程度だ。だがそれでも、制服越しに確かな体温は伝わってくる。
「う……」
 木兎にもたれかかってみると、背筋が緩むのとともに赤葦の感情を律する糸がゆるりと解ける心地がした。
 間もなく、嗚咽は大きくなり、赤葦は木兎の肩で声を上げて泣き始めた。まるで幼い子供が恥も遠慮もなく親にすがってわんわん泣くような、そんな泣き方だった。
 痛々しいほどに素直な赤葦の慟哭に、木兎の視界もじわりと滲む。当然だ。木兎もまた、赤葦と同じだけの別れの痛みを抱えているのだから。
 木兎は赤葦の涙を自分の肩に押し当てるように赤葦の後頭部をかき抱き、己もまた赤葦のくせっ毛に自分の片頬を埋めた。
「つれぇな、赤葦」
「はい、つらいです」
「寂しいな、赤葦」
「はい、寂しいです」
「今まで、ホント楽しかったよなあ、赤葦……!」
「はい、楽しかったです……!」
 心の穴を埋めるかのようにお互いにぎゅうと強くしがみつき、二人は泣いた。
 泣いて、泣いて、一生分泣いたのではないかというくらい泣いて。
 ようやく涙も枯れ果てて、互いの身体を放したとき、お互い涙でぐちゃぐちゃになった酷い顔を見合って爆笑した。
「あ……制服、すみません……」
 木兎のブレザーの肩口にできた涙の染みに気付いて赤葦が言うと、木兎は「いいよいいよ」と気にもとめずに笑った。そして、
「あっそうだ。制服と言えばさ、」
 ふいに、木兎は思い出したように言った。
 何だろうかと次の句を待つ赤葦の前で、木兎は制服のネクタイの結び目を緩めて頭から抜いた。そしてそのネクタイの輪を、まるでネックレスを掛けるかのように赤葦の首に掛け、結び目をシュッと絞った。
「はい。赤葦にあげる」
「……え?」
 少々気恥ずかしそうに笑った木兎に、その意図を測りかねた赤葦は首を傾げる。そしてしばし考え込んだのち、難しい顔をして遠慮がちに言った。
「あの……ネクタイのスペアなら俺もう持ってますけど」
「ッだあああ! 赤葦、ちっがーーーう!!」
 木兎は頭を抱えて天を仰いだ。
「赤葦ってさ、たまにすげーバカだよな!? 普段みんな俺のことバカバカ言うけど、赤葦も大概だからね!? 赤葦のバカ、大バカ、バカ葦!」
「バ……」
 バカ葦!?
 今自分が言われた台詞を再確認して面食らっている赤葦に、木兎は「よく聞け!」と人差し指を突きつけた。
「いいか赤葦。俺はね、赤葦に、何か俺の記念になるようなモノを残してあげたいって思ってんの!」
「!!」
 あ、そういう――。
 赤葦ははっと目を見開いた。
「ネクタイなら毎日使うもんだしいいかなーと思ったんだけど!? いらないなら返してもら」
「あっ、いや! いります! すっげえいります!!」
 プンスカ文句を垂れる木兎の台詞を赤葦は大声で遮り、勢いよく立ち上がった。
「あの、ええと、俺……」
 バカ葦と呼ばれても仕方のない五秒前の自分に平手打ちをかましたい気分だ。今になってようやく首に掛けられた木兎のネクタイの重みを理解した赤葦は、片手で顔を覆った。
 かーっと、顔が耳まで熱くなっていくのが自分で分かる。
「……、……」
「……赤葦?」
「やばい。めちゃくちゃ嬉しいです」
「――!」
 ヨッシャ、と木兎は満面の笑みでガッツポーズを決めた。どうやら赤葦は大変お気に召してくれたようだ。あの赤葦にこんな顔をさせたのだから、このプレゼントは大成功、いやそれ以上と言っていい。
 しばらくの間、真っ赤な顔で「ヤバイ、ヤバイ」と語彙力が死んだように繰り返していた赤葦だったが、やがて顔から手をどけると首に掛かった木兎のネクタイをじっと見つめた。
「……ありがとうございます。大事にします」
「へへっ、気に入ってくれてよかった! たまには俺のこと思い出してちょーだいね!」
「ははは、毎日でも思い出してしまいそうですね」
 これから先、木兎はスポーツ推薦で進学する大学で新たなセッターと出会うだろう。そして赤葦は新年度の梟谷バレー部で新たなエースに出会うだろう。双方が、新たな相棒と組むことになる。されど。
 この絆は決して忘れられるものではない。
 記憶の中に、胸のうちに、確実に息づいて、自分の身体の一部になるのだ。
「俺、頑張ります。俺の代になって梟谷は弱くなったとか言われないように」
「ああ、俺も頑張るよ。大学のバレーってスゲーんだろうな、今からワクワクする」
 白い歯を見せて木兎は笑った。
 赤葦の好きな、バレーが楽しくて楽しくてたまらない木兎の笑顔だった。

 

 その後、記念撮影に合流したふたりの目元は真っ赤だったけれど。
 赤葦に至ってはなぜか首に二本のネクタイを掛けていたけれど。
 それを指摘するような野暮な部員は誰一人としていなかった。
 帰り際、木兎は「じゃあ、またな!」と言った。
 その「また」がいつになるのか、赤葦にはわからない。大学生活が落ち着いた頃ひょっこり梟谷に顔を出すのかもしれないし、もしかしたらもう二度と会うことはないのかもしれない。あるいは、次に目にするときはテレビ画面の向こうかもしれない。
 胸元の木兎のネクタイをそっと握り、赤葦は雑踏に消えゆく木兎の後ろ姿に向かって心の中で敬礼した。
 二年間ありがとうございました、木兎さん。さようなら、どうかお元気で――。

 

   *   *   *

 

 赤葦の土曜の朝は早い。
 学校は休みでも、朝練と同じ時間に起床して近所にジョギングに出るのが習慣だ。
 卒業式の翌日であるこの日も、前日泣きすぎたせいで目も頭も痛かったが、けだるい身体を叱咤して布団から引き剥がした。三年生が卒業してしまった今、主将である自分が自主練をさぼってなどいられない。
 顔を洗って歯を磨くといくぶん意識がはっきりした。ハンガーに掛かった木兎のネクタイがちらりと視界に入り、胸がきゅうと苦しくなるような感傷を覚えたが、それはすぐに新年度への決意へと変わる。手早くジャージに着替え、赤葦は家族を起こさないよう忍び足で自宅を出た。
 玄関のドアを施錠し、深呼吸をすると早朝のひんやりと清らかな空気が肺いっぱいに入ってくる。空は澄み、ジョギング日和のいい朝だ。今日はどの道を走ろうか。
 そして門扉を開けて通りに出たところで、赤葦はぎょっとして急停止した。
「おはよー赤葦ー! 一緒に走ろうぜーっ!」
 なんと赤葦邸のど真ん前で、梟谷バレー部のジャージを腕まくりした木兎がぶんぶん手を振っていた。
「……は? えっ? なんで」
 なぜ木兎さんがここに?
 昨日卒業したはずでは?
 別れを惜しんで泣いたよな?
 っていうかまだ高校のジャージ?
 え、なんで? なんで!?
 大量のクエスチョンマークが一挙に押し寄せ、赤葦の脳内CPUはフリーズ寸前だ。
「なんでって、一緒に走ろうと思って!」
 意気揚々と木兎は答える。
 確かに、これまでも土曜の朝に木兎とジョギングをすることは多々あった。初めの頃は赤葦はひとりで走っていたのだが、何かの折に木兎に何気なく伝えたところ、木兎が「俺もやる!」と言い出して赤葦の家まで走ってくるようになったのだ。
 だから木兎がここに現れること自体は珍しいことではない。問題はそのタイミングだ。
「い、いや、そうじゃなくてですね。なんで今いるんですか」
「あれ、土曜のジョギングっていつもこの時間じゃなかったっけ?」
「いや時間の問題じゃなくて」
 だめだ、話が通じない。昨日いつになくまともなことを喋っていたと思ったらすぐこれだ。
 赤葦はいったん深呼吸をして大混乱に陥った脳内を整理した。
「……念のために聞きますが、木兎さん昨日卒業しましたよね」
「うん、したよ?」
「一緒に泣いて、俺に記念にネクタイくれましたよね」
「うん、朝起きたらまぶたがすげえ腫れててびっくりした!」
「帰るとき、じゃあまたって別れの挨拶してましたよね」
「うん、赤葦には『また明日』って意味になっちゃったけど」
「……はあぁ~~~」
 赤葦は思わずへなへなとその場にしゃがみこんだ。
 こっちはもう二度と会えない覚悟すらしていたというのに。昨日の俺の涙を返せと言いたい。
 赤葦が力なく突っ伏していると、木兎は中腰になって恐る恐る赤葦の顔を覗き込んできた。
「赤葦、なんか怒ってる?」
「怒ってません。あれだけ別れを惜しんでおいてすぐ次の日にひょっこり会いに来る人の神経がちょっとかなり理解不能なだけです」
「ぐうっ! 赤葦キビシイ!」
 木兎は銃で撃たれた物真似のようにジャージの心臓のあたりをおおげさに掴んだ。
「いや、俺もさ、昨日はそう思ってたんだよ。これで赤葦とも最後かーって。ホントに」
「はあ」
 昨日の自分に嘘偽りはない、と必死に証明しようとする木兎を赤葦は胡乱な目で見上げる。
「でもね? 俺気付いちゃったのよ。最後なのは梟谷に通うことなわけでさ、赤葦とは会おうと思えばいつでも会えるじゃんって!」
 俺、天才!!
 木兎はサムズアップした両手の親指で自身を誇らしげに指した。
「……そりゃあ、まあ、そうかもしれませんが」
 あっけにとられて赤葦は途切れ途切れに言う。
 確かに、赤葦の家と木兎の家はひどく離れているわけではない。普通は電車や自転車を使うだろうが、木兎ほどの足腰があれば走ってくることも可能な距離だ。そして木兎が進学する大学やその寮も都内だから、今後も行き来が困難になるとも考えにくい。互いの都合さえつけばどうとでもなる。
 だがそれは理論上の話だ。
「だからって、普通卒業式の翌日に来ます?」
 呆れ顔で赤葦は言ったが、木兎の答えは単純明快だった。
「だって赤葦とまた会えたら楽しいじゃん」
「……!」
 横っ面を突風に殴られたような衝撃だった。
 いくら理論上は可能でも、現実的にはライフイベントの区切りとともに終わってしまう、あるいは終わらせてしまう縁は多い。それが先輩後輩という異なるステージに立つ者の間柄ならばなおさらだ。
 なのに、この木兎という男はそんな通例などいともかんたんに吹き飛ばしてしまうのだ。楽しいから、というただそれだけで。
「……ふっ、あははは」
 自然と、笑みがこぼれた。
「え、俺何か変なこと言った!?」
 突然笑い始めた赤葦にぎょっとした木兎が後ずさる。
「いえ、木兎さんらしいなと思って。ははは」
 どこまでも『楽しい』に忠実に。そのためならばどんな困難も常識も、木兎の前ではただの霞、それ以下だ。
 赤葦は笑いながら立ち上がる。納得してみると、卒業後もこうして木兎が個人的に会いに来てくれたことが素直に嬉しかった。
「確かに名案です。俺には考えつきませんでした」
「だろー? 俺も思いついたとき自分にシビれたもんね! だいたいおかしいと思ったんだよなー、俺と赤葦のつながりが卒業のせいでプッツリ切れるなんてさ。そんなもんじゃないだろ、俺たちの、えーと、あれ、何だっけ、綱?」
「……絆、ですか?」
「そうそれ! キズナ!」
 木兎はびしっと人差し指を立てた。そんな少々よそ行きな単語すらも、木兎が言うと何の嫌味もなく耳朶を打つ。
「卒業なんかで終わらせられねーよな!」
 そうだろ? 赤葦。
 まばゆい金色の朝日を背に、木兎を腕を組んで呵呵と笑った。
 ああ、なんて眩しいのだろう。赤葦はたまらず目を細める。この人はきっといつまでも自分にとって輝く光であり続けるのだ――赤葦は今、そんな熱い予感を胸に抱いた。
「そう、ですね。そのとおりです」
 思わず柔らかい笑みがこぼれる。
 以前、木葉が言っていた。木兎の馬鹿さは一周回って天才なのではないか、と。まったく、こうして論破されてみると言い得て妙に思えてくる。
 木兎の常識離れした持論と行動力が、ふたりの縁を再び繋げたのだ。
「ただこれからは事前に連絡してくださいよ。いつも都合がつくとは限らないんで。それから早朝から大声で呼ぶのやめてください。近所迷惑になります」
「あっ、ハイ」
 赤葦の木兎に対する容赦ない苦言も復活だ。もはや様式美たるこんなやりとりすらも、これから何度も繰り返されていくのだろう。
「さあ、そろそろ行きましょうか。どのコースにします?」
「俺、川沿いの道がいーなー!」
「いいですね、賛成です」
 頷いて、赤葦はぐっぐっとアキレス腱を伸ばす。
「よーし、行くぞ赤葦ィ!」
「はい、木兎さん!」
 そしてふたりは走り始めた。
 春の訪れを感じさせる風を切り、膨らみ始めた桜の蕾を見上げながら、息を弾ませて走る。光差す道を、ともに、走る。

end.